* 旧八幡山村と八幡神社について *
京王線の八幡山駅の南側に八幡山町が広がっています。八幡山町は環八通りが左辺、旧滝坂道の118号線が底辺、赤堤通りが右辺の三角形というか、京王線が短い上辺となった台形の形をしています。八幡山の名はこの地に建てられた八幡社に因んで付けられたものだと言われています。
更に昔の記録の中には梶山村(鍛冶山村)という呼ばれ方もあり、鍛冶屋が必要とする炭をまかなう山(森)だったからそう呼ばれたのではないかと推測されています。実際、縄文時代の八幡山遺跡から17世紀のものと思われる炭焼窯も発掘されています。
八幡山は今でもそんなに広い町域ではないのですが、町域変更が行われる前はもっと狭く、環八付近は粕谷町でした。狭い上に水にも恵まれていなく、江戸時代は世田谷区内でも極端に石高が低く、貧しい村でした。これは水利が悪いのもありますが、世田谷を治めていた井伊家の御林に指定されていたのもあります。
時代が明治になっても高台で水利に恵まれない上に、御林だったので雑木林ばかりといった土地柄、人口が増えることがなく、大正二年に京王線が開通しても当時は八幡山の駅がなかったのもあってほとんど人口が増える事がなく、大正九年の国勢調査でも24世帯154人と寒村のままでした。
関東大震災後には復興のため杉の需要が高まり、八幡山の杉はほとんど伐採され、売りに出されたそうです。そして杉林が伐採された後地に竹を植えてタケノコを栽培し、それが貴重な収入源となり、また村も開けました。
戦後になると、新宿からそんなに離れていない広大な未開拓の土地は魅力的で、竹林や雑木林、そして畑がどんどん宅地化されていき、人口が爆発的に増えていきました。農業には不向きな土地でも住宅地としては最適だったようです。
人口が少なく、貧しかった八幡山村の氏神様が八幡社でした。神社は古くからあったようですが、もともとこの付近は船橋村だったとか。そして船橋村というのは湿地帯が多く、鎌倉時代などには鎌倉道に浮かんだ筏のような舟を繋げた橋が架かっていて、そのことから村の名が名付けられたとされています。
その船橋が架かっていたのが八幡神社の南側で、八幡社は船橋や鎌倉道の安全を見守るように建てられたとか、或いは船橋で亡くなってしまった人の霊を慰めるために建てられたのではといった説もあります。その真偽は分かりませんが、現在の社殿に建替えの際に奥宮の裏から文化七年(1810年)の記が見つかっています。
また狛犬も元治元年(1864年)に寄進されたという記があるので、江戸時代からこの地域の氏神様だったのは確かです。明治6年に村社となり、明治42年に合祀令により稲荷神社を合祀しますが、昭和11年には再び元の場所に戻されています。昭和46年に建替えが行われ、翌47年に現在の社殿が完成しています。
現在の境内はきれいに整備されていて、都会的というか、公園的というか、シンプルな境内となっています。ある意味境内らしくないのですが、逆にイベントなどを行うには平坦でやりやすいかと思います。そういった境内を利用して秋祭り以外にも青年会によってイベントが行われていて、夏にはラジオ体操の会場になっていたり、下旬頃には八幡山町会納涼まつりが行われます。
納涼まつりといっても青年会が中心となって出店を出すだけですが、夏の夜の納涼を求めて多くの人が集まります。このように神社は地域の人々の憩いの場所であり、交流の場にもなっていて、第三回のせたがや地域風景資産にも選定されています。