* 旧赤堤村と赤堤六所神社について *
世田谷の北部の真ん中付近にあるのが赤堤です。駅でいうなら京王線の下高井戸の南から小田急線の豪徳寺、経堂の北側にあたる地域で、東は松原、西は桜上水(かつての上北沢村)に接しています。赤堤の地名は北沢川沿いの赤土の高台に防塁があったから付けられたとか(善性寺の裏手付近)、台地が赤土なので北沢川沿いが赤土の堤になっていたからだとか言われていますが、そう呼ばれるようになった時代などはっきりしたことは分かっていません。
赤堤はかつての赤堤村になるのですが、古くは東の松原も含む広い地域でした。江戸時代、元禄十年から十六年の間(1697~1703年)に豪徳寺の滝坂道沿いに設置されていた松原宿の人々が赤堤の東部を開墾し、松原村として独立したとされています。独立に際して特に争いがあったといった記述は見つかりませんでした。松原地域はあまり水に恵まれない台地上の土地で、雑木林が生い茂り、ほとんど人が住んでいなかった土地だったようなので、平和的に譲ったのでしょうか。その他、代田の方に飛び地があるなど、かなり大きな村だったようです。
赤堤が歴史的に登場するようになるのは吉良氏が世田谷城を築いてからです。世田谷城の北に位置するこの土地には赤堤砦が築かれたといわれています。砦の場所は六所神社だったとか、赤堤山善性寺だったとか言われていますが、はっきりと分かっていません。平城だった世田谷城の北側は北沢川付近まで竹林などを設置して防御を固めていたと言われているので、北沢川の向こう側にあたるこの砦は防御的にはあまり機能しなく、見張り台的な小さな砦だったと思われます。
吉良氏が世田谷から去った後、関東は徳川家康の支配下となり、天正十九年(1591年)頃に赤堤は家康配下の服部貞信所領の旗本領となります。この服部氏は服部半蔵に連なる一族になるようです。天正10年(1582)の本能寺の変の際に、堺で窮地に陥っていた徳川家康を服部半蔵が護衛して伊賀越えを行って無事に本拠地の三河へたどり着いていますが、服部貞信もこの伊賀越えに手勢を率いて家康の案内を務めました。その功により旗本に登用され、家康の関東入りに従って赤堤村などを所領する事となりました。その後元禄10年(1697年)に服部氏は領地替えになり、以後赤堤は幕府の天領となります。
赤堤村の村社は六所神社になります。由緒書きによると「天正12年(1584年)12月、平貞盛の数世の孫、服部貞殷が府中の六所宮(現大国魂神社)を勧請して赤堤の総鎮守と定め、服部家の祈願所として奉斎したのが創祀です。」とあります。ただこれには幾つか疑問があります。
まず服部貞殷というのは何者であるのか。平貞盛の数世の孫とあるけど、平貞盛が他界したのが989年と言われているので、死後600年も経っていてはあまり説得力がありません。服部貞信の家系で見ると5代目領主に貞殷の名がありますが、天正12年では影も形もありません。それに天正12年という年号にしても、その頃はまだ世田谷城の吉良氏も勢力として存在していて、外部勢力が世田谷城の目と鼻の先に神社を建てる余裕などないし、第一服部氏は家康と共に関東にやってきています。といった事から少しこの由緒には疑問があります。
ちなみに天正12年12月といえば、後に六所神社を別当に持ち、服部氏の菩提寺となる西福寺が開基した年でもあります。どこかで混同してしまったのかもしれません。勝手な推測ですが、恐らく天正19年(1591年)以降に旗本である服部貞信が勧請、或いは別の場所から移動してきて服部家の祈願所とし、それが地元の人々の信仰対象となっていき、村の鎮守となっていったのではないでしょうか。
現在の六所神社は約1,000㎡の社叢林があり、うっそうとした鎮守の森の雰囲気が感じられる神社となっています。敷地の東側、かつては神社の入り口が東側にあったそうですが、今では赤堤幼稚園があり、平日は元気な子供達の遊び場になっているはずです。
本殿や社務所などの建物は比較的新しく、よく整備されています。境内に置かれている神社復興の石碑を見ると、昭和32年に赤堤幼稚園の設立、昭和35年に参道や鳥居が整備され、昭和44年に本殿を再建、神楽殿を新築、昭和54年に社務所再建、昭和59年に境内が整備されています。恐らく近年にも建物の修理や補修が行われていると思われます。
その他境内には境内社として松沢稲荷神社や小さな池が造られている厳島神社(弁財天社)などもあります。赤の社殿が周囲の緑に良く映え、晴れた日に訪れると木漏れ日が美しく感じる神社です。