* 宇山地区と宇山稲荷神社について *
宇山稲荷神社が鎮座するのは桜丘です。桜丘にはもう一つ稲荷森稲荷神社があり、大まかに桜丘4丁目が宇山稲荷神社、それ以外が稲荷森稲荷神社と氏子地域を分けています。桜丘については稲荷森稲荷神社の方で詳しく書きましたが、旧世田谷5丁目にあたり、世田谷村の一部だった地域です。桜丘という名も昭和41年に世田谷から分離した際につけられたもので、それ以前は世田谷村の横根地域(東横根、中横根など)と宇山といった具合に氏子地域と同じように別れていました。
宇山地域というのは多摩川沿いにある宇奈根地域の人々が幕府の新田開発政策や洪水などを機に移り住んで開墾した土地と言われ、最初は宇奈根山谷と名付けられていましたが、後に短縮して宇山となったそうです。そういった経緯が大事にされているのか、宇山の読み方は「うやま」ではなく「うざん」になります。
宇山稲荷神社前にある久成院の初代住職の墓に元和6年(1615年)とあり、当時は一村、一社、一寺が推奨されていたので、その少し前に移住が行われたと推測でき、恐らく天文19年(1550年)、或いは天正18年(1590年)の大洪水で移り住んだのではないでしょうか。こういった歴史的な背景があるので、同じ町域に二つの神社を中心に二つの村があり、お互い棲み分けが行われてきました。
宇山地域は世田谷通りと環八が交わる三本杉交差点の北東に広がる地域で、なだらかな丘になっています。水の便はあまりよくなく、雑木林に覆われていた土地を開墾し、畑と雑木林が広がる純農村地域でした。近年まで畑の多い地域で、その農村風景が「心なごむ桜丘の原風景」としてせたがや地域風景資産にも選定されてるなど魅力的な風景が残っていましたが、今では急激に宅地化が進み、かつての面影が少なくなってきました。その純農村地帯の宇山にひっそりとあるのが宇山稲荷神社で、宇山の人々の守り神であり、心のより所となっていました。
宇山稲荷神社の由緒は不明ですが、江戸幕府は宇奈根山谷のように新しくできた村には菩提寺と鎮守社を建立することを推奨していたので、久成院を建立されたであろう江戸の初めころに宇山稲荷神社もこの地の守り神として建立されたのかもしれません。
多摩川沿いの宇奈根は氷川神社の文化圏ということを考えると、なぜ氷川神社じゃなかったのかといった疑問はありますが、氷川神社自体マイナーな種類の神社ですし、この地域の稲荷文化に合わせたのかもしれません。社殿は初め南向きに建てられていたそうですが、1800年ころに悪い病気が村に流行し、氏子たちは祈祷師か何かに相談したのか、独自に行ったのか分かりませんが、社を西向きにしてみたところ病気も治まっていったそうです。以来「西向稲荷」とも呼ばれ、防ぎ神の神事なども行われてきました。
明治になると政府による一村一社の合祀令が出され、この地は世田谷村の一部であるので、郷社宇佐神社、現在の世田谷八幡宮に合祀されることとなりました。これは形式的なものだったようで、神社は残り、戦後の昭和29年に改めて神社本庁所属の宗教法人稲荷神社として登記されました。ちなみに稲荷森稲荷神社の方は合祀に断固として反対し、独立を維持したため現在でも単立神社で神社本庁所属ではありません。
現在の神社は木々がうっそうとした感じの境内で、敷地はそこそこ広いのですが、社殿は小さく、神楽殿などといったものもなく、今も昔も変わらずといった簡素で素朴な感じのする境内です。社殿、社務所、鳥居などは平成4年に大改修が行われたので、比較的新しさが残り、境内も手入れが行き届いているので寂れた感じはありません。その他、社殿の横には第六天、天神様、御嶽・榛名神社の境内社が3つ並んでいます。