* 旧経堂在家村と経堂天祖神社について *
小田急線の豪徳寺と千歳船橋の間に経堂駅があります。位置的には環七と環八の中間ぐらいで、世田谷区でいうならほぼ中央のちょい北側といった感じでしょうか。経堂と聞いてどういうイメージを持つかは人それぞれでしょうが、町内の路地は細く、一方通行や行き止まりが多いため車で経堂を通り抜けるのが大変で、「経堂迷路」などといった事がすぐに思い浮かぶ人もいるかと思います。
もちろん世田谷にはこういう場所が幾つかありますが、やはり場所が世田谷の中心部付近なのと、北の赤堤通りから小田急線を越えて南の城山通りや世田谷通りに抜けたいときに、環七や環八を回るのは大変なので、何とかなるだろうと経堂を突っ切ると、いきなり二車線道路が行き止まりになり、路地に入って迂回しようものなら狭く迷路のようで、一方通行を進んでいくと徐々に方角を見失い、気がつけば明後日の方向へ誘導されてしまって・・・となってしまう事に原因があるようです。
経堂は江戸時代は荏原郡経堂在家村と呼ばれていて、世田谷区が成立した1932年(昭和7年)に経堂町となりました。地名の由来は幾つかの説があり、はっきりしていないようです。経堂在家村の名が歴史に現れるのはこの地が旗本領となった江戸時代の初期、寛永六年(1629年)の事で、それまでは菅刈庄、亀ヶ谷村、鍛冶山などと呼ばれていたようです。
経堂の名は駅の南側にある経堂山福昌寺に因んでいるというのが一番有力な説だといわれています。このお寺を建てたのは当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門という人物でした。彼は中国から幕府のお抱えの医者として日本へ迎えられ、そのまま帰化した知識人だったとかで、多くの書物をお堂に収蔵していました。
付近の住民は書物=お経と勘違いし、お経のたくさんあるお堂、経堂と呼ぶようになり、その後松原氏が敷地内にお寺を建てる際に経堂の名が気に入ったのか、経堂山福昌寺と名付けたようです。在家は出家の意味の仏教的な言葉で、松原氏が普通の生活をしながら仏教信仰を行っていたので、経堂に在家を付けて村の名前になったとか。
この他の説は、村に珍しい京風のお堂があり、それを京堂と呼んでいたのが経堂になったとか、お経の本を沢山埋めたお堂がこの地域の住民の信仰の対象になっていて経堂になったとか、在家も中世の荘園制度に由来する集落に近い意味で、菅刈庄と呼ばれた荘園の名残という説もあります。いずれにしてもお堂に因んだ地域になるようです。
経堂は烏山川(用水)が中央を横切り、戦前までは川沿いの低地に田んぼが多くある地域でした。村内には農業の神様である稲荷神社があちこちにあったそうです。そういった土地ですが、経堂の氏神様として地域の人々に慕われていたのは天祖神社で、明治七年に村社に指定されています。昔は伊勢の宮と称していましたが、村社に指定される頃、「宮」の称号を一般の民社で使用する事が禁じられたので、天照大御神の「天」と氏神様(先祖神)の「祖」を合わせて「天祖神社」となったそうです。
明治40年には付近の稲荷社や北野神社が合祀されたため、祭神は天照皇大神の他に稲荷社の宇迦之御魂神、天神様の菅原道真公と増えました。ただ現在でもすずらん通りに北野神社、南口の路地に本村稲荷社の祠が残っていたりします。一村一社とか色々と決まり事があった時代なので複雑な事情があるのかもしれません。
天祖神社の創建に関しては「新編武蔵風土記」には創建年代不詳とされていますが、地元の伝承では永正4年(1507年)となっています。何の根拠があってこの年なのか、この年号が何を意味するのかよくわかりませんが、だいたいこの頃と考えるなら室町時代後期は吉良氏が世田谷に居城を構えた時代です。世田谷城や世田谷八幡神社からそんなに離れていないこの地が開けるにはもってこいな頃だと考えられるので、あながち間違った年号ではないのかもしれません。
現在天祖神社は経堂4丁目に鎮座しています。経堂全体から見ると真ん中よりも少し西側といった位置になりますが、小田急線で考えると経堂駅と千歳船橋駅の中間地点になります。経堂駅が経堂の東の端で、千歳船橋駅が経堂の西端に少し掛かるような形で位置しているからしょうがありませんが、繁華街から少し離れているので周りは住宅ばかりです。
境内には木々が茂り、神社の北側は経堂四丁目児童遊園として整備されているので、住宅街にあってこの一角はとても緑豊かで、昔ながらの雰囲気を感じることができます。境内にある社殿などは昭和51年に修復が行われ、神楽殿は本殿の脇にある古いものとは別に近年新しく建てられました。