世田谷散策記 世田谷の秋祭りのバーナー
秋祭りのポスター

世田谷の秋祭り File.12

経堂天祖神社例大祭

かつて夏には万燈神輿、秋には天祖神社の神輿と経堂は御神輿の盛んだった地域ですが、今では少々下火になってしまいました。境内では明治神宮仕込みの巫女舞が行われ、新しい祭りの顔となりつつあります。

鎮座地 : 経堂4-33-2  氏子地域 : 経堂1~5丁目
御祭神 : 天照皇大神、倉稲魂神、菅原道真公  社格 : 旧経堂村村社
例祭日 : 10月第一日曜と前日
神輿渡御 : 宮神輿、太鼓車、隔年で町会神輿(次回2015年)
祭りの規模 : 小規模  露店数 : 数店
その他 : 奉納神楽、奉納演芸が行われます。

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*** 経堂と経堂天祖神社 ***

経堂天祖神社の写真
神社の入り口

住宅街にありながらうっそうとした雰囲気は残っています。

経堂天祖神社の写真
社殿など

簡素な感じの境内です。

* 旧経堂在家村と経堂天祖神社について *

小田急線の豪徳寺と千歳船橋の間に経堂駅があります。位置的には環七と環八の中間ぐらいで、世田谷区でいうならほぼ中央のちょい北側といった感じでしょうか。経堂と聞いてどういうイメージを持つかは人それぞれでしょうが、町内の路地は細く、一方通行や行き止まりが多いため車で経堂を通り抜けるのが大変で、「経堂迷路」などといった事がすぐに思い浮かぶ人もいるかと思います。

もちろん世田谷にはこういう場所が幾つかありますが、やはり場所が世田谷の中心部付近なのと、北の赤堤通りから小田急線を越えて南の城山通りや世田谷通りに抜けたいときに、環七や環八を回るのは大変なので、何とかなるだろうと経堂を突っ切ると、いきなり二車線道路が行き止まりになり、路地に入って迂回しようものなら狭く迷路のようで、一方通行を進んでいくと徐々に方角を見失い、気がつけば明後日の方向へ誘導されてしまって・・・となってしまう事に原因があるようです。

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経堂は江戸時代は荏原郡経堂在家村と呼ばれていて、世田谷区が成立した1932年(昭和7年)に経堂町となりました。地名の由来は幾つかの説があり、はっきりしていないようです。経堂在家村の名が歴史に現れるのはこの地が旗本領となった江戸時代の初期、寛永六年(1629年)の事で、それまでは菅刈庄、亀ヶ谷村、鍛冶山などと呼ばれていたようです。

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経堂の名は駅の南側にある経堂山福昌寺に因んでいるというのが一番有力な説だといわれています。このお寺を建てたのは当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門という人物でした。彼は中国から幕府のお抱えの医者として日本へ迎えられ、そのまま帰化した知識人だったとかで、多くの書物をお堂に収蔵していました。

付近の住民は書物=お経と勘違いし、お経のたくさんあるお堂、経堂と呼ぶようになり、その後松原氏が敷地内にお寺を建てる際に経堂の名が気に入ったのか、経堂山福昌寺と名付けたようです。在家は出家の意味の仏教的な言葉で、松原氏が普通の生活をしながら仏教信仰を行っていたので、経堂に在家を付けて村の名前になったとか。

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この他の説は、村に珍しい京風のお堂があり、それを京堂と呼んでいたのが経堂になったとか、お経の本を沢山埋めたお堂がこの地域の住民の信仰の対象になっていて経堂になったとか、在家も中世の荘園制度に由来する集落に近い意味で、菅刈庄と呼ばれた荘園の名残という説もあります。いずれにしてもお堂に因んだ地域になるようです。

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経堂は烏山川(用水)が中央を横切り、戦前までは川沿いの低地に田んぼが多くある地域でした。村内には農業の神様である稲荷神社があちこちにあったそうです。そういった土地ですが、経堂の氏神様として地域の人々に慕われていたのは天祖神社で、明治七年に村社に指定されています。昔は伊勢の宮と称していましたが、村社に指定される頃、「宮」の称号を一般の民社で使用する事が禁じられたので、天照大御神の「天」と氏神様(先祖神)の「祖」を合わせて「天祖神社」となったそうです。

明治40年には付近の稲荷社や北野神社が合祀されたため、祭神は天照皇大神の他に稲荷社の宇迦之御魂神、天神様の菅原道真公と増えました。ただ現在でもすずらん通りに北野神社、南口の路地に本村稲荷社の祠が残っていたりします。一村一社とか色々と決まり事があった時代なので複雑な事情があるのかもしれません。

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天祖神社の創建に関しては「新編武蔵風土記」には創建年代不詳とされていますが、地元の伝承では永正4年(1507年)となっています。何の根拠があってこの年なのか、この年号が何を意味するのかよくわかりませんが、だいたいこの頃と考えるなら室町時代後期は吉良氏が世田谷に居城を構えた時代です。世田谷城や世田谷八幡神社からそんなに離れていないこの地が開けるにはもってこいな頃だと考えられるので、あながち間違った年号ではないのかもしれません。

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現在天祖神社は経堂4丁目に鎮座しています。経堂全体から見ると真ん中よりも少し西側といった位置になりますが、小田急線で考えると経堂駅と千歳船橋駅の中間地点になります。経堂駅が経堂の東の端で、千歳船橋駅が経堂の西端に少し掛かるような形で位置しているからしょうがありませんが、繁華街から少し離れているので周りは住宅ばかりです。

境内には木々が茂り、神社の北側は経堂四丁目児童遊園として整備されているので、住宅街にあってこの一角はとても緑豊かで、昔ながらの雰囲気を感じることができます。境内にある社殿などは昭和51年に修復が行われ、神楽殿は本殿の脇にある古いものとは別に近年新しく建てられました。

*** 経堂天祖神社の秋祭りの様子 ***

経堂天祖神社の秋祭りの写真
出発前のお祓い・・・かな

太鼓車が出発する前に何か祭事を行っていました。

経堂天祖神社の秋祭りの写真
神楽舞(巫女舞)

氏子による舞です。

経堂天祖神社の秋祭りの写真
夜の境内

年々屋台が減っているのが気になります。

経堂天祖神社の秋祭りの写真
奉納演芸

夜は氏子による奉納演芸が行われます。

* 経堂天祖神社の秋祭りについて *

かつての経堂天祖神社の例大祭(秋祭り)は10月2日に宵宮、3日に本祭が行われ、それに合わせて本村稲荷社の祭りも行われていたそうです。神社の周辺の道には灯篭が灯され、神楽殿では神楽が舞われ、神楽の後には芸人による芝居が行われる事もあったそうです。神輿も烏山川で村の南北が分かれて宵宮、本祭ともそれぞれ神輿が担がれるなど、とても賑やかなお祭りだったようです。

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現在では10月の第一週末に祭礼日が変更されました。土曜日の宵宮では線路の北側を神輿が回り、本祭では線路の南側を回ります。ただ近年では担ぎ手がいないので、本祭のみ担がれて、土曜日はトラックの荷台に載せて移動していたりします。

奉納演芸などは宵宮、本祭とも同じで、15~17時に神楽舞奉納(巫女舞)、17時半~21時に町内有志による舞踊や民謡といった演芸が行われ、21時からすぐお隣の千歳船橋駅前にある稲荷森稲荷神社で活動する安宅囃子保存会による演奏が行われ、その後にミカンや餅などの配布があります。

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ここの特徴というか、ここの神社のご自慢は新しい神楽殿で舞われる巫女舞(神楽)が充実していることです。祭りの日程表を見ると宵宮、本祭のどちらの日も15時から17時まで神楽舞奉納とあります。これはお面を付けて舞う神楽ではなく、いわゆる巫女舞がずっと舞われます。もちろん浦安の舞などの巫女舞も正式には神楽舞と呼ばれるので間違いではありませんが、2時間も巫女舞が行われる神社はなかなかないのではないでしょうか。

舞人は年配の方々で、どこかの舞踊会の人が奉納舞を行っているのかなと思っていたのですが、聞いてみると氏子の方々が舞っているそうです。なんでも神主さんの奥さんが明治神宮で位の高い舞人を行っていたとかで、それを氏子の人に指導して演じているそうです。そう聞いて改めて舞台を見ると、素人っぽいかなと思いましたが、なかなか他では見られない貴重なものに違いありません。

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境内はあまり活気があるとは言えない状態です。訪れる人は多くなく、露店も数店しかでません。かつては境内の外の道まで露店が出ていたほど賑やかだった事を考えると寂しい限りです。このご時世なので境内の外に屋台を出すのが難しくなっているのかもしれませんが、数年前に訪れた時には神社隣の公園にも店が並んでいたことを考えると、人が集まらなくなってきていて、活気がなくなってきているなと感じざるを得ません。

やはり経堂駅と千歳船橋駅の中間という立地条件が悪いのではないでしょうか。経堂駅南口からは世田谷八幡が近く、千歳船橋駅からは稲荷森稲荷神社が近いので氏子地域にとらわれない一般の人が集まらなくなっているように感じます。

*** 経堂天祖神社の神輿渡御 ***

*** 宮神輿渡御 ***

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
農大通り商店街での発輿式

道路脇という感じなので微妙です。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
農大通り商店街を進む神輿

安宅囃子が先頭で高張り、神輿と続きます。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
威勢良く担がれる神輿

いきなりメインイベントといった感じです。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
進む神輿

通りが狭いこともあってあまり激しくありません。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
小田急線をくぐる

まもなく神社です。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
神社前を進む宮御輿

最後だけは通りを一杯に使います。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
宮入してきた神輿

まずは本殿に向います。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
宮入

最後は神楽殿の前で納めます。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
トラック神輿

土曜日はトラックの荷台での渡御です。

経堂天祖神社の神輿渡御の写真
太鼓車

昭和8年に購入した5尺2寸の大太鼓です。

同じ村内でも大きな境となるものがある場合、そこで村の北南、東西といった生活圏な境ができるものです。経堂村は村の真ん中を北西から南東にかけて烏山川(烏山用水)が流れ、村を北と南に二分していました。そのため村の北と南といった感じで、烏山川によって文化圏が分かれていたそうです。

神輿もかつては北神輿と南神輿があり、宵宮祭、本宮祭にそれぞれ担がれ、多いに盛り上がったそうです。烏山川はが埋められた現在では境界のない一つの町に・・・とはならず、それ以上に大きな境界、そう、まるでベルリンの壁(ちょっと古い例え)のようにそびえる小田急線の高架によって町が分かれています。町域変更でも線路によって町域が仕切られるようになり、商店街も南口と北口でそれぞれ発展していき、線路の北側と南側で町の文化圏ができあがっています。

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現在の神輿渡御もそういった事を反映していて、土曜日に線路の北側の二丁目、三丁目を回り、日曜日には線路の南側の一丁目、四丁目、五丁目を回るといった感じで分かれています。しかしながら、昔のような活気はなく、土曜に行われる北側の渡御は担ぎ手がいない事から太鼓車の後ろにトラックの荷台に載せられた御神輿がついていくといった感じの渡御で、日曜日の渡御も盛大な宮出しといったものは行われず、南口の農大通り商店街まで御神輿が運ばれ、そこで発輿式が行われ、神社に向って担ぎ始めるといったものです。

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土曜日の神輿、太鼓車の運行は15時から日曜日は13時半から始まります。土曜日は神輿が担がれることなく太鼓車の後ろを軽トラックの荷台に載せてついていくといった感じです。

日曜日は13時半に太鼓車とお囃子の車のみが神社から出て、御神輿の方は14時すぎから農大通り商店街の清水葬祭の前で発輿祭が行われます。神社から出発してきた太鼓車が通り過ぎた後、14時半過ぎに担ぎ始めます。ここで興味深いのは御神輿の駒に北の文字がある事です。今では南口商店街として経堂の南の中心的な場所ですが、かつての境界線である烏山川で考えると北側に位置しているので、北の文字が伝統的に残っているようです。

渡御は担ぎ始めが賑やかな商店街とあって、いきなり盛り上がるといった感じです。ただ道幅が狭いので、ちょっと遠慮がちに担いでいるといった印象です。この通りでは夏に阿波踊りやサンバも行われますが、やはり道が狭いので踊り手が萎縮しているような感じを受けます。それに担ぎ手に商店街や阿波踊りのむらさき連の人間が多いので、あまり通行人や他の店舗に迷惑をかけられないといった自制心も少し働いているのかもしれません。

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夜になると神社に宮入します。今では露店も減ってしまい、あまり活気のない境内となってしまいましたが、御神輿が入ってくると熱気に包まれます。御神輿はまずは拝殿前に向い、ここで担ぎ上げを行います。そして甚句。むらさき連の太鼓のエースによる太鼓伴奏が入るのが経堂らしいところでしょうか。それが終わると神楽殿の前で納めます。すぐ近くの稲荷森稲荷神社のように御神輿が暴れることもなく、比較的おとなしく、あっさりとした感じの宮入となります。神楽殿で御神輿を迎える演奏を行っているのは神輿渡御でも先頭を努める稲荷森稲荷神社の安宅囃子です。

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* 町会神輿 *

ちゃんと確認していなく、実際に見ていないのですが、二年に一度、宮神輿とは別に北口のすずらん通り商店街の町会神輿が運行され、神社にやってくるようです。なぜ二年に一度なのか。それは商店街のメインストレートとなっているすずらん通りが経堂と宮坂の境界線となっているからです。そのため道の左右で町名が違います。普段の生活においては同じ区内なので大して不都合はありませんが、氏子地域が厳格に決められている神社関係においてはちょっと問題となります。同じ組合に所属していても氏子神様が異なり、経堂側は経堂天祖神社、宮坂側は世田谷八幡神社に属する事になります。

世田谷八幡は祭礼が9月、天祖神社は10月なので祭日がかぶることはないのですが、両方に参加していたら商店街の負担が大変だし、このご時世に担ぎ手を集めるのも大変です。よって一年ごとに世田谷八幡神社と経堂天祖神社に交代で御神輿を運行しているといったわけです。

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かつて若林では村内にある三社で順番に祭礼を行っていたり、羽根木では村内の二社を交代でといった感じで同じ村内において神社が年によって変わることはありましたが、違う町域へ一年ごとに氏神様を変えて渡御するというのは珍しいというか、昔ではこういう事はありえない事だったと思います。

近年では町域変更や再開発などで氏子地域も曖昧となり、近いからということで別の町域の氏神様へお参りするというのも普通のこととなりました。時代の流れによって生まれた新しいタイプの御神輿渡御になるのでしょうか。

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すずらん商店街神輿が天祖神社にやってくるのは西暦の奇数年です。経堂駅の北口から出発し、すずらん通りを直進し、ぐるっと回って天祖神社へ宮入し、その後高架下付近を通って北口に戻ってくるといったルートになります。宮神輿が南口の農大通り商店街を中心にしているので、こちらは現在の北神輿といった感じでしょうか。神輿渡御には太鼓車、子供神輿も運行されるので、なかなか賑やかなようです。初心者でも参加しやすいように、運行前の12時から担ぎ方の練習なんてあるのも商店街神輿らしいところです。

* 感想など *

かつて経堂では秋の天祖神社の祭りで南北2基の神輿が担がれ、夏に行われる経堂祭りでも2基の万燈神輿が担がれていました。この万燈神輿には経堂だけではなく、関東から担ぎ手が集まってきたとか。とても神輿の盛んだった地域です。

しかしながら今ではそういった面影はなく、なんとか神輿を運行しているといった感じです。夏に行われる経堂祭りでは地元の阿波踊りのむらさき連を中心に大変盛り上がりますし、サンバパレードにも区外からも多くの人が訪れています。こちらの方は年々賑やかになっていますが、秋祭りの方は年々寂れているといった感じを受けました。過去の賑わいや経堂祭りでの賑わいを考えるとこの神社だけ時代に取り残されてしまったような寂しさを感じてしまいます。

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そうなってしまったのは時代の流れによって人々の趣向が変わってしまったことや神社立地の悪さが大きいのでしょう。担ぎ手がいなくなって行われなくなった万燈神輿に取って代わったサンバパレードの盛況ぶりを考えれば神輿渡御やお祭り自体が盛り上がらないのはしょうがないかなと感じてしまいます。

でももっと深いところでは過去の境界線である烏山川と現在の境界線である小田急線高架と新旧二つの境界線が混在し、中途半端に町を、商店街を、人の心を分けている影響もあるのかなと祭りを訪れてみてなんとなく思ってしまいました。

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<世田谷の秋祭り File.12 経堂天祖神社例大祭 2012年10月初稿 - 2015年10月更新>