* 上町と上町天祖神社について *
現在の世田谷の行政の中心は区役所のある世田谷4丁目になります。時代をさかのぼっていくと江戸時代は代官屋敷のある世田谷1丁目、その前は世田谷城のある豪徳寺2丁目となり、これらはいずれも1キロ以内にあるので、今も昔もこの付近が世田谷の中心ということになります。
この三カ所は全く関係のない場所ではなく、世田谷城が造られた頃、区役所のある付近を鎌倉道が通っていてちょっとした宿場になっていました。古い字でも元宿と付けられています。またこの付近は高台になっているので見晴らしが良く、後には武家屋敷が並ぶようになったとか。

時代が進むと、鎌倉道よりも厚木方面に抜ける大山道(矢倉沢往還)が重視されるようになり、新たに新宿が設けられました。それが代官屋敷のあるボロ市通りになり、昔は上宿、下宿と分かれていました。ボロ市通りを含む上宿は後に字の上町となり、現在の世田谷1丁目のボロ市通り付近と世田谷2丁目になります。下宿の方は下町と名付けられ、駒沢公園通りから東側になります。

かつての世田谷のメインストリート、そして現在での冬の風物詩として全国的に地名度のあるボロ市が開催されるのがボロ市通りです。ボロ市通りの中心は代々代官職を努めてきた大場家の屋敷を利用した世田谷代官屋敷で、現在でも現存していて、一般に公開されています(内部は土間だけ)。
同じ敷地内には世田谷郷土資料館が建てられていて、世田谷の歴史やボロ市の歴史などを知ることができます。この代官屋敷と通りを挟んであるのが、世田谷信用金庫や上町まちづくりセンターで、その間に挟まれるような形で天祖神社の参道があり、奥まったところに社殿があります。

この上町天祖神社は稲荷社が相殿となっていて、天照大御神と倉稲魂神が祀られています。創建年代や由緒は不明ですが、中宮として保存されている本殿の沓石に刻まれている文字によると「此の祠は昔伊勢森にあった。その始めは不詳、今嘉永己酉夏予小吏郷民に命じて新しく祠を字上町に造らしめた」とあり、恐らく横根の伊勢森にあった稲荷社の祠をこの地へ移して相殿とし、嘉永己酉(1849年)に新たに祠を創ったという事のようです。
この旧社殿は昭和55年に区に寄贈され、郷土資料館に展示されているのですが、造りは向唐破風屋根の宮殿造りと稲荷社の社殿造りとは建築様式が異なっているので、言い伝えとは別の曰くがあるのかもしれません。

この天祖神社は上町の鎮守として人々の信仰を集めていましたが、村の守り神としての村社ではなく、字の守り神といった位置づけになるので、明治41年の政府による小社合祀の令の一村一社の原則に従って明治42年6月に世田谷村の鎮守世田谷八幡宮に合祀され、神社が一度廃止されたという歴史を持っています。
しかし上町の人々の要望によって昭和6年に本殿を建て直して再建されました。昭和7年になると世田谷区の誕生と共に上町は旧世田谷一丁目に組み込まれました。終戦を迎えると寺社は政府の管轄から離れ、小社合祀の令も守らなくてもよくなり、昭和29年には設立登記し、社殿ならびに社務所を建設して神社としての形式が整えられました。

昭和41年には大規模な町域変更が行われ、旧世田谷1丁目は現在の世田谷1~4丁目という住所となり、上町の旧町域にあたる世田谷1、2丁目の鎮守となりました。それと同じくして天祖神社も改築を行い、現在の配置になったようです。それまでの天祖神社は今の鳥居のところに社殿があり、社務所はその裏にあったようです。

現在の天祖神社は広々とした境内を持っているようにみえますが、区立公園である世田谷天祖神社広場も含まれているので見た目よりもずっと狭いはずです。神社も社殿のすぐ前に鳥居があるといった変わった配置で、しかも社殿は建物に近づけないように柵で覆われています。多分この柵で覆われている部分だけが神社の敷地となるはずです。広々としているようで、とても窮屈にも見える神社です。
普段は広場で遊ぶ子供達や通行人がいるぐらいですが、冬のボロ市、夏の鷺草市と盆踊りの時はとても混雑します。特にボロ市は何十万という人手があるので境内も一日中大混雑です。そういった様子を見ると、神社が柵で覆われているのも分かる気がします。