世田谷散策記 せたがや地域風景資産 タイトル

せたがや地域風景資産
第3回選定 #11-20の紹介

平成26年に世田谷区と地域団体によって選定された「第3回せたがや地域風景資産」の#11-20の紹介です。詳細は個別のページをご覧ください。

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#3-11 水辺のある能勢公園

船橋三丁目能勢公園の案内板

お茶の師範であった能勢氏より寄贈されて平成9年に公園として整備。庭の木々や植栽、門、井戸、灯篭、大谷石など当初の能勢邸の面影を伝えている。地域住民による自主的な管理運営、ビオトープづくり等が取り組まれている。 (紹介文の引用)

場所:船橋3-10-12 備考:ーーー

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船橋三丁目能勢公園 ビオトープのある園内

池田夫妻が遺贈した土地に出来た池田児童遊園の隣に、能勢さんが遺贈した船橋三丁目能勢公園が平成21年に開園しました。

子供の遊び場を作るほど広くないし、隣には遊具のある池田児童遊園があることから、静かに自然と親しむ場とし、能勢邸だった頃の面影を残しつつ花木や野草などを観賞する庭としていくことになりました。

管理するのは、すぐそばにある「季節の野草に出会う小径」を管理している「船橋小径の会」。園内にはビオトープ(小さな池)が設けられ、ホタルがいたころのような環境を目指すそうです。

#3-12 石井戸(大蔵)の愛宕山

仙川と石井戸の愛宕山
仙川と石井戸の愛宕山

国分寺崖線の一角、大蔵の仙川沿いにある豊かなみどりと湧水を有する斜面地は、地元では「愛宕山(あたごやま)」と呼ばれ、この辺りは「石井戸」と呼ばれていた。昔から子どもたちが遊んだ原風景として、今に残る風景をその地名とともに残し、後世に伝えていきたい資産である。 (紹介文の引用)

場所:大蔵4-4先 備考:ーーー

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石井戸の愛宕山 小川沿いにある鳥居
小川沿いにある鳥居

調整中

#3-13 大蔵の四季が溢れ出す妙法寺の境内

大蔵妙法寺
大蔵妙法寺

「寺は寺を取り巻く地域社会と共に生きる」を信念に、地域の参加で管理されている梅・桜・桃・どうだんつつじ、花菖蒲・さぎ草・紅葉など、四季を感じ憩いの時が持てる庭があり、樹齢70年のしだれ桜のライトアップや、二の午祭での児童との交流など、地域に開かれた風景をつくっている。(紹介文の引用)

場所:大蔵5-12-3 備考:ーーー

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大蔵妙法寺 枝垂れ桜
枝垂れ桜
大蔵妙法寺 回転大仏
回転大仏

調整中

#3-14 賀川豊彦と松沢の教会・幼稚園・資料館

賀川豊彦記念 松沢資料館
賀川豊彦記念 松沢資料館

関東大震災の救援のために移住した賀川豊彦によって雑木林から開拓された。当初の教会と幼稚園は建て替えられているが、賀川により推奨された「自然教案」により、敷地内には当時からの樹木が多く残されている。資料館の2階広場には、当初の木造教会が保存されている。日本建築家協会25年賞受賞。 (紹介文の引用)

場所:上北沢3-8-14、19 備考:ーーー

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旧松沢教会
旧松沢教会

調整中

#3-15 八幡山の八幡社

八幡山の八幡社

「新編武蔵風土記稿」によると「八幡山」という地名は、この八幡社に由来すると言われ、現在も地域のシンボルとなっている。地域の方々の参加によって四季の祭礼や行事が行われるとともに、日常的に参詣する人、散歩途中に立ち寄る人、子どもたちの遊び場となるなど、地域の憩いの場となっている。(紹介文の引用)

場所:八幡山1-12-30 備考:ーーー

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八幡山の八幡社 秋祭りの時の境内
秋祭りの時の境内

八幡山町域の氏神様は八幡社です。この八幡社から八幡山の地名が付いたのではないかと推測されていますが、定かではないようです。

広々とした社地は399坪あります。境内は平坦に整備されていて、都会的というか、広場や公園のような感じがします。

境内らしくないといえばそうですが、逆にイベントなどを行う際にはやりやすく、秋祭り以外にも町内会や青年会によって、夏にはラジオ体操の会場や八幡山町会納涼まつりなどに使われるなど、八幡町域のコミュニティーの一画を担っています。

#3-16 文豪の住まいと雑木林のある蘆花恒春園

蘆花恒春園 史跡案内

「晴耕雨読」で知られる小説家・徳冨蘆花が晩年を過ごした茅葺きの自邸を中心に、雑木林や竹林など、世田谷の原風景を今も感じさせる風景である。東京都指定史跡でもある、徳冨蘆花旧宅(梅花書屋)では、現在、公園事務所とボランティア団体が連携したコンサートも行われている。 (紹介文の引用)

場所:粕谷1-20-1 備考:ーーー

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蘆花恒春園 蘆花邸の書斎
蘆花邸

明治、大正時代の文豪、徳冨蘆花。彼が40才から暮らしたのは、人がほとんど住んでいない粕谷の地でした。土に親しむ生活を営みたいということで、自分の土地を恒春園と名付け、執筆活動を行いながら、亡くなるまで晴耕雨読の暮らしをしました。

蘆花が亡くなった後、夫人の愛子さんが、土地や建物、遺品を都に寄贈し、都立蘆花恒春園が誕生しました。恒春園では、蘆花が暮らしていた建物や、実際に使用していた書斎等が見学でき、後に建てられた蘆花記念館では、遺品や原稿などが展示されています。

蘆花恒春園 茅葺コンサート
茅葺コンサート

恒春園内は、雑木林や竹林が茂り、茅葺の家屋も相まって、蘆花が暮らしていた時代の武蔵野の面影をよく残しています。そういった静かな雰囲気の中、茅葺家屋をステージにして、蘆花の命日には「蘆花を偲ぶ集い」が行われたり、クラシックを中心とした茅葺コンサートが定期的に行われています。

#3-17 粕谷本橋家の竹林と野草苑

本橋家 粕谷
本橋家

竹林は江戸時代にこの地域の近郊農業として広まった筍栽培の名残として今に残るものであり、せたがや百景にもなっている。野草苑は、所有者の自邸の庭園を「もとはし野草苑」として公開しており、四季折々の珍しい野草が自生する風景を見ることができる。(紹介文の引用)

場所:粕谷2-11-32 備考:ーーー

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粕谷 本橋家の竹林
本橋家の竹林(市民緑地になる以前)

芦花公園の北側に広がっている粕谷の地には、平成の頭ぐらいまで、古くからの地主の土地を中心に農地が多く残っていました。竹林も多く残っていて、それがせたがや百景にも選ばれています。

しかし、そういった風景はどんどんと減り、今では地主である本橋家の敷地や、蘆花恒春園ぐらいにしか、印象的な竹林の風景は残っていません。

本橋家では、以前から竹林や野草のある自宅の敷地を個人的に公開していましたが、最近、本橋邸の一部が「粕谷二丁目本橋家の竹林市民緑地」となりました。

#3-18 給田小学校の古民家

給田小学校の古民家

宍戸家より給田小学校に移築・保存された古民家は、せたがや百景にもなっている。日常的な児童の憩いの場であると共に、千歳民俗資料保存会と児童による掃除や障子の張り替え、PTAや地域の団体による行事など、学校、地域、子ども、保護者の協働による「生きた風景」となっている。 (紹介文の引用)

場所:給田4-24-1 備考:ーーー

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給田小学校の古民家

建て替え前の給田小学校には、地域から移築してきた宍戸家のワラ葺古民家と、農機具を保存した民俗館があり、一般の人も見学することができました。

平成17年から給田小学校の建て替えに伴い、古民家は一度解体されましたが、建て替え終了後、学校の敷地の隅に復元され、平成22年に落成式が行われました。

ただ、以前のように見学可という状態にはなっていなく、古民家も藁ぶきだった屋根はトタンでのようなもので覆われ、壁も過剰に保護され、古民家風建物といった存在になってしまいました。

#3-19 烏山寺町

烏山寺町の案内図

せたがや百景でもあり、寺院が連なる路地や寺院内の池や花木の他、第1回地域風景資産の釜六の天水桶、国歌の歌詞にも出てくるさざれ石、そば禁止の碑など、様々な魅力を包含している。地下水や湧水を含む自然環境を保護するため、烏山寺町環境協定を締結する活動も地域で行われている。(紹介文の引用)

場所:北烏山4~6丁目 備考:ーーー

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烏山寺町 初期に移転してきた妙寿寺
初期に移転してきた妙寿寺

大正12年(1923年)に関東大震災が起き、東京の中心部で大きな被害が出ました。これを機に、都心部から郊外へ学校や住居などを移転する動きが活発になり、烏山でも震災で焼け出された寺を中心に寺町が新たに造られました。

烏山寺町は、震災の翌年から建設が始まり、大正15年までに6寺、昭和3年までの間に16の寺が引っ越してきました。その後、昭和30年までに4寺が増えて、現在では26の寺院で形成されています。

烏山寺町 浮世絵師、喜多川歌麿の墓
浮世絵師、喜多川歌麿の墓

26もの寺が集まっているので、文化財なども多く、都の史跡になっている浮世絵師、喜多川歌麿の墓をはじめ、世間に名を知られた方のお墓があります。建物的には新しいものばかりですが、移築して客殿として使っている鍋島家の楼閣は、世田谷区の文化財になっています。ちょっと変わった蕎麦禁制の石碑や、江戸の名鋳物師、釜六が制作した天水桶もあり、それぞれのお寺の個性や風情を楽しみながら散策することができます。

烏山寺町 高源院の弁天池
高源院の弁天池

ここ烏山寺町で注目すべきは、地域全体で緑が多いこと。大きな木々が多く、自然も多く残っていて、高源院の弁天池は烏山弁天池特別保護区に指定されています。

こういった豊かな環境は、しっかりとした秩序があってこそ維持できるものです。無秩序に開発を行えば、部分的なものになったり、最悪、消えてしまいます。

見た目の景観を守るのも大事ですが、根本的な部分、自然や緑の保全に一番大切な地下水や湧水を守るために、地域で烏山寺町環境協定を締結し、地域ぐるみで環境の保全に取り組んでいます。

#3-20 みどりと静けさの北烏山九丁目屋敷林

北烏山九丁目屋敷林 市民緑地の案内板

江戸時代からの農村風景と暮らしが感じられる貴重な風景である。所有者は現在も農業を営んでおり、屋敷林に囲まれた庭、古民家、納屋・蔵・井戸・竹林等などの資源が現存し使用されている。市民緑地として一般開放されている。 (紹介文の引用)

場所:北烏山9-1 備考:開園は午前9時~午後5時(11月~3月は午後4時)

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北烏山九丁目屋敷林 市民緑地 畑と屋敷林
畑と屋敷林(2014年)

甲州街道の烏山総合支所入り口交差点のすぐ北側に市民緑地の北烏山九丁目屋敷林があります。敷地は立派な屋敷林に囲まれていて、この一角だけ緑にあふれています。

ケヤキの並木となっている玄関へのアプローチを歩くと、正面に「下山千歳白菜発祥の地」の碑が置かれています。下山というのはこのお宅の名字で、江戸時代から続いている農家になります。

昭和の初めに下山さんが品種改良を行った白菜は、普通の白菜よりも大きく、病気にも強く、味もよかったということで、食糧難だった戦時中、戦後には喜ばれたそうです。今では・・・、大きさゆえに扱いが大変で、ほとんど栽培されていません。

北烏山九丁目屋敷林 市民緑地 旧母屋と竹林
旧母屋と竹林

市民緑地内には、下山さん宅で使っていた母屋や土蔵が公開されています。中には入れませんが、蚕を飼育していた頃の農家の様子を想像することができます。

その他、井戸や竹林もあり、かつてこの地に存在していた農風景を感じることができます。更には、敷地の奥には広い畑があり、この家自慢の白菜を栽培していました。生きた農業の風景もあったのですが、残念ながら、2018年頃住宅地に変わってしまいました。

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