世田谷散策記 タイトル
せたがや地域風景資産 #3-15

八幡山の八幡社

八幡山1-12-30

「新編武蔵風土記稿」によると「八幡山」という地名は、この八幡社に由来すると言われ、現在も地域のシンボルとなっている。地域の方々の参加によって四季の祭礼や行事が行われるとともに、日常的に参詣する人、散歩途中に立ち寄る人、子どもたちの遊び場となるなど、地域の憩いの場となっている。(紹介文の引用)

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1、旧八幡山村と八幡社

八幡山付近の地図(国土地理院)
八幡山付近の地図

国土地理院地図を書き込んで使用

京王線の八幡山駅の南側に八幡山の町が広がっています。八幡山町域は、環八通りが左辺、旧滝坂道の118号線が底辺、赤堤通りが右辺の三角形というか、京王線が短い上辺となった台形の形をしています。八幡山は今でもそんなに広い町域ではありませんが、町域変更が行われる前はもっと狭く、環八付近は粕谷町でした。

八幡山の町名は、この地にある八幡社に因んで付けられたものではないか・・・。と言われていますが、定かではないようです。

八幡社の由緒書きの写真
八幡社の由緒書き

中世、世田谷城で世田谷吉良氏が統治していた時代、この付近の地名を梶山(鍛冶山)と記している書簡が残っています。

この地に鍛冶屋が必要とする炭をまかなう山(森)が広がっていたからそう呼ばれたのではないか・・・。と推測されています。実際、17世紀(江戸時代)の炭焼窯も発掘されています。

古くから森が広がっていた八幡山は、面積が狭い上に、水にもあまり恵まれていなく、江戸時代は世田谷区内でも極端に石高が低く、貧しい村でした。世田谷を治めていた井伊家の御林に指定されていたことも影響していました。

時代が明治になっても、その状況は変わりませんでした。高台で水利に恵まれない上に、元々が御林として使われていたので、杉林や雑木林ばかりといった土地。交通の便もよくなく、人口が増える要素がありません。

そんな寂れた八幡山にも開発の波が到来し、大正二年、村の北側に京王線が開通しました。しかし、当時は八幡山の駅がなかったのもあり、人口が増える事はほとんどなく、大正九年の国勢調査に拠ると、八幡山に暮らすのは24世帯154人と、寒村のままでした。

1940年頃の八幡山の航空写真(国土地理院)
1940年頃(戦前)の八幡山付近

国土地理院地図を書き込んで使用

大正7年に京王線の松沢駅(後の八幡山駅)が開業。大正8年には精神科の専門病院、松沢病院がこの地に引っ越してきました。

大正12年には関東大震災が起き、その後、復興のため杉の需要が高まり、八幡山に多数生えていた杉は伐採され、売りに出されたそうです。そして伐採した跡地に竹を植え、タケノコを栽培し、それが貴重な収入源となりました。

大正末期から戦前にかけては、震災を機に郊外へ移住者が増えたことで、村も開け始めました。隣の町域の上北沢駅前で大規模な宅地開発が行われ、上北沢住宅ができたのもこの頃です。

戦後になると、新宿からそんなに離れていない広大な未開拓の土地は魅力的で、竹林や雑木林、畑がどんどん宅地化されていきました。更には、甲州街道や環八などの幹線道路が整備されていき、人口が爆発的に増えました。

八幡山八幡社の写真
八幡山八幡社

日がよく入り、明るい感じの神社です。

人口が少なく、貧しかった八幡山村の氏神様は、八幡社です。神社は古くからこの場所にあったようですが、もともとこの付近は南の船橋村に所属していたとか。

海や大きな川に面していない場所に船橋村という地名があることに違和感を感じますが、この付近は湿地帯が多く、鎌倉時代などには鎌倉道に浮かんだ筏のような舟を繋げた橋が架かっていて、そのことから村の名が船橋と名付けられたのではないか・・・と言われています。

その船の橋が架かっていたのが、八幡社の南側。おそらく烏山川の辺りが大きな湿地となっていたのでしょう。そして、八幡社は、船橋や鎌倉道の安全を見守るように建てられたとか、或いは船橋で亡くなってしまった人の霊を慰めるために建てられたのではないか・・・といった説もあります。

その真偽や、八幡社の由来はよく分かりませんが、現在の社殿に建替える際に奥宮の裏から文化七年(1810年)の記が見つかっていてるので、それ以前に社があったことと、現在の千歳台にある東覚院薬王寺が別当(管理寺)になっていたことだけは確かです。

八幡山八幡社の社殿の写真
八幡社の社殿

狛犬が二重に並んでいるのが目を引きます。

広々とした社地は399坪あります。境内は平坦に整備されていて、都会的というか、広場や公園のような感じがします。

境内らしくないといえばそうですが、逆にイベントなどを行う際にはやりやすく、秋祭り以外にも町内会や青年会によって季節のイベントが行われていて、夏にはラジオ体操の会場になっていたり、八幡山町会納涼まつりなどが行われています。

八幡山八幡社 八幡山町会納涼まつり 境内の様子の写真
八幡山八幡社 八幡山町会納涼まつり かき氷の出店の写真
八幡山町会納涼まつり

多くの人で賑わっていました。

夏の納涼まつりはなかなか魅力的なイベントで、境内に多くの出店が並び、アジアの屋台村みたいな感じになります。しかも、秋祭りとは違い、店は地元の団体が営業しているので、値段が安い。かき氷も50円と子供のお小遣いで買えてしまいます。

この日は食と、楽しい雰囲気と、納涼を求めて多くの人が集まり、境内がとても賑やかな雰囲気になります。

公園感覚とまではいかないにしても、ここまで地域に開かれた神社というのはあまりないように感じます。神社は厳かな場所といった主張もあるので、それがいいか悪いかはそれぞれだと思いますが、地域のコミュニケーションの場として役立っているのは確かで、第三回のせたがや地域風景資産に選ばれています。

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2、八幡山八幡神社の秋祭り

八幡山八幡社 秋祭りのポスターの写真
秋祭りのポスター

八幡山八幡神社の祭礼は、基本的に毎年9月22日に本祭と宵宮、翌23日(秋分の日)に神輿渡御が行われます。

祭礼は22日の10時から式典や祭事が行われます。夕方18時半頃から芸人などによる奉納演芸が行われます。

八幡山八幡社 秋の例大祭 奉納演芸の様子の写真
奉納演芸の様子

神楽殿がないので、地面で行われます。

この神社には神楽殿がないので、奉納演芸は境内の地面の上で行われます。訪れたときは大道芸人が演じていましたが、まさに大道芸といった雰囲気。あまり奉納演芸らしくありませんでした・・・。

奉納演芸が終わると、ビンゴ大会が行われ、盛り上がったところで、宵宮が終わります。

八幡山八幡社 秋の例大祭 宵宮の境内の写真
宵宮の境内

多くの屋台が並び、多くの人で賑わっていました。

翌日は朝9時から神輿渡御が始まり、夜に神社に戻ってきます。境内に多くの出店が出ることから夕方から夜にかけては、両日とも混み合います。

現在の祭礼は賑やかに執り行われていますが、かつては村が小さく、人口も少なく、裕福でもなかったので、神社に村人が集まってお酒を飲むだけといった「とっくり祭」を行っていたそうです。

他の村でもとっくり祭は行われていましたが、それは不作の時とか、何年かに一回行われる盛大な祭りのための資金繰りとかといった事情があったのですが、八幡山のように毎年とっくり祭だった地域はありません。

そういう意味ではやはり特殊な環境だったのでしょう。戦後になると人口が増え、念願だった神輿を購入し、盛大に祭りが行われるようになります。畑がなくなってから収穫を祝う秋祭りが盛大に行われるようになるというのも皮肉な話です。

八幡山八幡社 秋の例大祭 境内の様子の写真
神輿の出発

いよいよ神輿渡御の始まりです。

八幡山八幡社 秋の例大祭 神輿の宮出しの写真
神輿の宮出し

いよいよ神輿渡御の始まりです。

八幡山八幡神社の神輿渡御は、毎年9月23日に行われます。宮出しは朝9時で、宮入は19時半頃。渡御時間が長いのが特徴です。

現在の神輿は、昭和53年に地元宮大工が建造したもの。台座は二尺二寸、延軒屋根、勾欄造りです。その他、子ども神輿と立派な山車も渡御します。

八幡山八幡社 秋の例大祭 山車の写真
山車

八幡山の自慢の一品です。

山車も神輿と同じ年に建造されています。世田谷区内の祭礼で使われる山車の多くは、一時的にトラックを改造した簡易的なものです。ここの山車はそういったものとは一線を画していて、木製のフル規格とも言うのでしょうか、とても立派なものです。

彫刻とか中身とかの目利きができるほど目は越えていませんが、見た目では間違いなく世田谷で一番立派な山車になるかと思います。

八幡神社の祭礼以外でも、毎年区民祭の神輿パレードで先陣を切っています。区民祭での渡御の様子や、地元の祭りで動かしている様子を見ると、八幡山のご自慢の一品といった感じでした。

とはいえ、神楽殿がなかったり、しっかりとしたお囃子連がいなかったりと、少しちぐはぐな印象も受けてしまいましたが、近年では青年会を中心としたお囃子のメンバーは増え、活気が出てきているようです。

なんでも、以前は秩父からお囃子を呼んでいたそうですが、自分たちで何とかしようということで、秩父に修行に行き、秩父のお囃子をメンバーに教えたのが、今の八幡山のお囃子になるそうです。区内の他のお囃子とは系統が違うので、少し音色が違うかもしれませんね。

八幡山八幡社 秋の例大祭 子供神輿の写真
子供神輿

保護者が見守る中出発していきます。

八幡山八幡社 秋の例大祭 休憩所でのお菓子配りの写真
休憩所でのお菓子配り

山車引きに多くの子供が参加していました。

宮出しは朝9時という少し早めの出発となります。その分というか、すがすがしい感じの宮出しで、青年会の人たちが朝から頑張っている様子は好感が持てました。

渡御は、大人神輿が鳥居から早々に宮出ししていき、その後から山車が脇から出発、その後ろを子供神輿が続いていきます。朝早い時間帯にもかかわらず、子供の数が多いこと。楽しそうに山車引きに参加していました

最初の休憩場所はすぐ近くで、大人神輿と山車や子供神輿は別々に休憩を取っていましたが、この後一緒に渡御を行うのかどうかは見ていないので分かりません。

八幡山八幡社 秋の例大祭 荒れる宮入の写真
荒れる宮入

ぐちゃぐちゃな状態でした。

宮入は19時半頃。朝9時に宮出しをしているので、10時間もの道中になります。広くない八幡町域。一体どこを周っていたのだろう・・・などと気になりますが、突っ込んではいけないのでしょう。

ちょっと皮肉っぽく書いたのは、朝はさわやかな感じでとてもいい神輿渡御だったのが、神社に戻ってくる手前から見るに堪えないほど荒れに荒れまくっていたから。怒号は飛び交っているし、何度も殴り合いの喧嘩が起きるし・・・。見ていられない状態でした。

しかも巻き添えを喰らい、目の前で喧嘩が起きたので仕方なく仲裁に入ったら、総代だかわからなけど、いきなり酒をぶっかけてくるし・・・。おかげで身体がべたべたになるという、最悪な展開。関係ない人にまで酒をかけるな。と、怒りたくもなってくる。正直、今まで見てきた中で一番最悪な宮入でした。

たまたまこの年(2009年)がよくなかったのだとは思いますが、こんな状態ならダラダラと長く担がなくても・・・といった冷めた見方をしてしまうものです。

八幡山八幡社 秋の例大祭 宮入の写真
宮入

最後は何とか収まりました・・・。

とまあ酷い状態でしたが、最後は何とか拝殿前に納まり、神輿渡御が終了。境内に静けさと平穏が戻りました。

桜まつりにしても、盆踊りにしても、八幡山の行事の雰囲気はよく、秋祭りでも全体的にはいい印象を受けたのですが、この神輿の宮入だけはよくありませんでした。これを見なければ、八幡山の行事はどれも素晴らしい・・・となったのでしょうが、見てしまったものはしょうがないですね。

3、感想など

八幡山八幡社 八幡山町会納涼まつり 外から見た様子の写真
八幡山町会納涼まつり時の境内

地域に欠かせない存在となっています。

八幡山は小さな町域です。しかも、駅周辺は高井戸、上北沢の町域が大半を占めているので、大きな商店街があるわけでもありません。町域には集合住宅が多く、古くからの家も少なく、新しい町といった印象を受けます。

こういった地域では、行事を行っても人が集まらなかったり、手伝う人が少なかったりして、イベント自体が行われなくなったりするものですが、ここでは春には団地で桜祭り(現在は中止)、夏には盆踊りや納涼会、秋には八幡社の秋祭りと、様々なイベントが行われています。しかも、参加する子どもたちも多いように感じます。

それは町内会、或いは青年会などの団体が積極的に活動し、イベントを告知したり、準備をし、住民が参加しやすい環境を整えているからなのでしょう。そういった八幡山のコミュニティーの一角を担っているのが、八幡山八幡社になります。

八幡山は、かつてとても貧しく、お祭りをしたくても人がいないといった寒村でした。昭和になり、人が増えてくると、老人達は自分たちの若い頃にできなかったことを教訓に、色々と若い人に知恵を貸したことでしょう。その精神や教訓みたいなものが、昭和の時代からずっと続いているのかな・・・・などと、勝手に勘ぐってしまうのですが、どうなのでしょう。

せたがや地域風景資産 #3-15
八幡山の八幡社
2025年2月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所八幡山1-12-30
・アクセス最寄り駅は京王線八幡山駅。駅から少し離れています。
・関連リンク八幡山町会
・備考ーーー
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