世田谷散策記 タイトル
せたがや地域風景資産 #2-13

奥沢海軍村ゆかりの風景

奥沢2丁目界隈

奥沢海軍村は、海軍士官の子孫や海軍村に惹かれて住み着いた人々によって、今もなお緑豊かな街並みが残っています。ポーチ付の玄関や棕櫚(シュロ)の古木 等がある住まいなどに、当時の面影を色濃くとどめています。(公式紹介文の引用)

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1、奥沢海軍村について

旧呉鎮守府司令長官官舎(呉入舟山記念館)洋館の写真
旧呉鎮守府司令長官官舎(呉入舟山記念館)

かつて広島の呉に海軍の鎮守府が置かれました。

「奥沢海軍村ゆかりの風景」というのは、風景資産の中でもトップクラスに魅力的に感じるタイトルです。かつて用賀にあったアメリカ村に匹敵するぐらい魅力的に感じます。それと同時に、なぜ海のない奥沢に海軍?一体何があるの?といった事を強く思うタイトルではないでしょうか。

やはり海軍といえば港町や海の見える場所がふさわしく感じます。その象徴的なのは、日本海軍の鎮守府が置かれた広島の呉です。

現在でも残る旧呉鎮守府司令長官官舎や当時の赤レンガ倉庫などの旧跡はもちろん、目の前に広がる湾に海上自衛隊の軍艦や商船などが浮かぶ様子を眺めると、そのロマンというか、雄大さに心ときめきます。

奥沢2丁目 海軍村だった付近の写真
海軍村がある町並み

庭付きの家が多い地域です。

奥沢の海軍村では、そういったロマンを感じられるのだろうか。ぜひ見てみたい。とりあえず行ってみれば、何か海軍らしいものがあるだろう。

地域風景資産の情報が少ない頃でもあったので、何も調べずに奥沢駅北側の奥沢2丁目を訪れてみたのですが、そこにあったのは普通の・・・、いや普通よりも随分と高そうな住宅地でした。

一軒一軒の庭が広くて、垣根もあって、区画も整理されているときたら、成城と同じだな・・・といった感想しか出てきません。

同時に第一回選考の「大ケヤキのある散歩道-けやき道」も海軍村のすぐそばで、ここも同じような住宅街の一角にある風景でした。

何で海軍村なんだろう。単に高そうな住宅地ではないか。いまいちよく分からないまま奥沢から撤収してしまいました。

奥沢2丁目 海軍村跡の碑の写真
海軍村跡の碑

電柱の後ろにひっそりとあります。

家に帰ってから海軍村についてちゃんと調べてみると、今では海軍村跡の石碑が建っているのと、数軒の家にかつての名残が見られるだけで、痕跡はほぼ残っていないとのことでした。漠然と歩いても、何も見つけられなかったわけです。

1940年頃の奥沢2丁目界隈の航空地図(国土地理院)
1940年頃の奥沢2丁目界隈の航空地図

国土地理院地図を書き込んで使用

1960年年代の奥沢2丁目界隈の航空地図(国土地理院)
1960年代の奥沢2丁目界隈の航空地図

国土地理院地図を書き込んで使用

海軍村がこの地に形成されたのは大正末期から昭和初期にかけてのことです。

正確には、大正13年にこの地域の地主である原氏と海軍省の互助会水交会が土地の賃貸借契約を締結しているので、大正13年以降から徐々にこの地に入植が始まっていきました。

最初は5軒だったのが、大正の終わりには17軒になり、海軍の関係者が多く暮らすこの地域はいつしか海軍村と呼ばれるようになりました。

昭和10年頃が最盛期となり、30世帯ほどの海軍関係者がこの地区に暮らしていたようです。この地に住居を構えていたのは主に将官・佐官ら高級将校でした。

奥沢2丁目 海軍村の案内板の写真
海軍村の案内板

土とみどりを守る会によるものです。歴史などが紹介されています。

なぜ奥沢だったのか。それは海軍の事情によります。当時の日本帝国海軍の基地は横須賀にあり、一方海軍省は霞ヶ関にあり、また上大崎(目黒)にも海軍大学校と海軍技術研究所がありました。

こういった施設を行き来する高級将校には、この奥沢と限らず東京西部は暮らすのに立地条件が良かったのです。

それとともに、大正12年に関東大震災が起きた事も無関係ではありません。

関東大震災を契機に世田谷区の人口が爆発的に増加していくわけですが、それは人々が大火事やパニックなど、密集した場所に多くの人が暮らすことの危険性と、郊外の安全性を認識したからです。

特に軍関係者は、東京中心部の脆弱性を痛感したはずです。軍隊がいくら最新鋭の兵器を擁し、素晴らしい軍事力を誇っても、それを統率すべき者がいなければ意味がありません。

万が一首都を攻撃された場合なども想定して、国防上の理由から郊外に住居を構える事になったという見方もできます。

奥沢2丁目 海軍村の地図の写真
海軍村の地図

当時暮らしていた海軍関係者が記されています。

それだけなら奥沢以外でもよかったわけですが、奥沢が選ばれたのは関東大震災と同じ年に目蒲線の奥沢駅が開業したことにあります。

更には、この海軍村のある奥沢2丁目付近は玉川村に属していながら、玉川全円耕地整理事業よりも先に区画整理を行っていて、ちょうどこの付近で住宅地を探していた海軍のニーズにぴったりと当てはまりました。

これは海軍が要求したのか、はたまたこの地の地主である原氏が先見の目があったのか分かりませんが、玉川村で行われていた玉川全円耕地事業は土地所有者の損得が関わるので、揉めに揉めてなかなか事業が進みませんでした。

それを傍目に原氏は、全円耕地整理事業が起きる前年、他の奥沢の地区と比べるなら約5年前に独力で区画整理を行っています。

後ろ指をさされるイメージ(*イラスト:ハコさん)

(*イラスト:ハコさん 【イラストAC】

抜け駆け的なことをすれば、村八分的なことになるのが日本の社会。地主だったら絶対にそれは避けたいところです。それでも実行したのは、行政のごたごたがあったのもありました。

この地域は、明治22年以前は調布村(大田区田園調布)の飛び地でした。それが明治22年4月の市制町村制による大規模な統合によって、玉川村奥沢に所管変更となりました。

玉川村の中でも新しく入ってきた余所者といったこともあり、グダグダと進展のない玉川全円耕地事業に協調して区画整理を行うのではなく、抜け駆け的にさっさと区画整理をしてしまい、海軍に貸したという背景もあるようです。ちなみに当時の土地賃借契約証書によると、賃借料は坪単価8銭だったようです。

こういった事情で、鉄道が開通したばかりで辺りには何もないような土地ながら、区画整理が行われていて、都市部に近い割に土地が安価であり、海軍関係者には利便性がそこそこ良かったことで、この奥沢に海軍村が形成されていきました。更には、昭和になってから東横線が全線開通したことも、その後の海軍村の発展につながりました。

奥沢2丁目海軍村 当時の面影を残す家の写真
当時の面影を残す家

大正14年築の海軍村初期の建物です。南国的な雰囲気が少し感じられます。

海軍村とはどういった様子だったのでしょう。海軍村といわれていますが、実際には海軍軍人に混じって陸軍の軍人も少し住んでいたようです。

ただ陸軍軍人が固まって生活することはなかったようで、このへんは海軍、陸軍の習慣の差というのがあるのかもしれません。

一般的に海軍の軍人は狭い船内で生活していることに慣れているので、地上でも狭いコミュニティーで暮らすことに対してあまり苦にならないようです。

そして周囲との協調性を重んじます。例えばこの海軍村でも最初に誰かが洋風の建物を建てれば、村全体がそういった風潮の建物になり、棕櫚(シュロ)を植えると、それを真似て他の庭にもシュロが植えられていくといった感じだったようです。

奥沢2丁目海軍村 シュロの木がある通りの写真
シュロの木がある通り

この界隈ではシュロの木がそびえているお宅が何件もあります。

当時の海軍村の住宅の大半は約200坪といった広い敷地に木造平屋で外壁下見板張りの洋風住宅を建てていました。

洋風の建物を好むところは、海を渡る海軍らしいところでしょうか。それに土地の使い方もものすごく贅沢です。

敷地は低い垣根で区切られ、庭には多くの木を植えていました。当時海軍村ではシュロを植えるのが流行っていたとか言われています。

現在でも海軍村を歩いていると、背の高いシュロの木をよく眼にします。一般の人も植えていたようなので、シュロのある家が必ずしも軍人の家だったというわけではありませんが、かつて海軍村と呼ばれていたころの名残となります。

このシュロという木はヤシ科の南国の木です。これは海軍が推進役を果たしていた南方攻略のいわゆる「南進熱」の表れではないかとも言われることがあります。ちなみに花言葉は「勝利」です。

夏になると幹の頂きに黄色い粟粒のような花を咲かせますが、これは南国的に少々青臭いにおいがします。夏の暑さの中でこういった南国の臭いをかいで、潜在的に南国へ思いをはせていたのかもしれませんね。

奥沢2丁目海軍村 2階建の和洋折衷住宅の写真
2階建の和洋折衷住宅

昭和12年築、一般人の住居だったようです。平成26年に取り壊されました。

現在の海軍村を歩くと、比較的敷地に新しい住宅が並んでいるので、閑静な高級住宅街といった感想になるかと思います。

戦前までの奥沢2丁目の敷地面積は一軒あたりおよそ200坪が標準的な広さだったとの話ですから、相当な広さです。それが現在まで引き継がれて、庭が広く垣根が設けられている家が並ぶ風景となっています。

ただ、近年では相続で土地が分割されたり、老朽化した家を建て直す際に土地を半分売ったり、一軒家だった場所に大きなアパートが建てられたりと、この地域の町並みや緑の多い景観が変わってしまいました。

奥沢2丁目海軍村 当時の面影がある建物の写真
当時の面影がある建物

この界隈では木造建築はほとんど見られなくなってしまいました。

現在でも当時の面影を残す家が数軒ほど残っています。平屋の家を今でも使用しているお宅などは、余程愛着があるんだろうなと感じてしまいます。

また、海軍関係者ではなく、一般の人が建てた当時の木造住居も数軒残っています。ただそういった家も気が付くと新しい家に変わっているといった感じで、海軍村の面影を求めるのは年々難しくなっています。

奥沢2丁目界隈の地図(国土地理院)
奥沢2丁目界隈の地図

国土地理院地図を書き込んで使用

年月が経ちすぎてしまったので、当時あった建物のほとんどなくなってしまい、海軍村だった痕跡は消えかかっていますが、大きい視点、この付近の区画に海軍村だった頃の名残が見られます。

奥沢2丁目の海軍村付近は玉川全円耕地整理事業に先駆けて区画整理を行ったものだから、他の玉川地域と微妙に区画がずれています。そのため道がうまく連絡していませんし、道幅も少し狭いです。

車だと少々不便を感じるかもしれませんが、逆を言えば通り抜けもしにくいので、暮らす人にはメリットの方が多いかもしれませんね。もっとも、この地域は鉄道に囲まれた城塞都市のような場所なので、人口の多い世田谷にありながら交通量がとても少なかったりします。

奥沢 錆びついている古い掲示板 国鉄からのお知らせの写真
錆びついている古い掲示板

海軍村の町域で発見しました。なぜ国鉄?

余談ですが、海のない奥沢に海軍村があったなぞは解けましたが、散策していると、新たな謎がもたげてきました。

そのなぞというのは、町域に設置してあった古い掲示板。現在は使われていないようですが、それには国鉄からのお知らせとあります。

国鉄やJRに全くかすりもしていないのが世田谷。当然、四方を鉄道に囲まれている奥沢でも関係がありません。なぜにこんな掲示板が設置されていたのでしょう。どんなお知らせがあったのでしょう。気になります・・・。

2、感想など

奥沢2丁目海軍村 特徴的な家とそびえるシュロの木の写真
特徴的な家とそびえるシュロの木

昭和4~5年築の建物。南国っぽい雰囲気が感じられるお宅です。

世田谷に海軍村がある。そう知った時にはちょっと胸がときめきました。しかし、実際に訪れてみると、これぞ海軍村だ!といった風景が残っているわけではなく、ちょっと痕跡が見られる程度のものでした。

でも、海軍村だった地域を歩き、庭先にそびえているシュロの木を眺めながら、この地にかつて海軍の人が海軍村を形成して暮らしていたんだな・・・と思いをめぐらせると、散策が楽し鋳物になります。それに、世田谷にそういった場所があったということ自体が、散策心をくすぐるような面白い話ではないでしょうか。

せたがや地域風景資産 #2-13
奥沢海軍村ゆかりの風景
2025年2月改訂 - 風の旅人
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・地図・アクセス等

・住所奥沢2丁目界隈
・アクセス最寄り駅は東急大井町線・東横線自由が丘駅、目黒線奥沢駅
・関連リンク土とみどりを守る会
・備考個人のお宅なので内部は非公開です。
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