* 代田の丘の61号鉄塔について *

こういったプレートは普段見ることがないし、何番というのも気にすることがないですね。
世田谷風景資産の中でもなかなか面白いタイトルです。
代田の丘の61号鉄塔とは代田2丁目の丘の上にある高圧電力の鉄塔のことで、61号というのはこの鉄塔が駒沢線に含まれ、その61番目にあたる鉄塔という意味です。
しかしながら実際に訪れてみても、この鉄塔はどこにでもあるごくありふれた近代的な鉄塔です。
なぜこんなありふれた送電線の鉄塔が選ばれてしまったのか。もしこれが日本で一番歴史ある古い鉄塔なら訪れるほうとしてもなかなか魅力的な存在で、感想とかも書きやすかったりしますが・・・、いや、そんなものが密集した住宅地にあったら大問題ですね。
では、なぜ60号でなく、62号でもなく、この61号鉄塔なのかということになるのですが、それは昭和初期の近代文学に関係していて、鉄塔の真下に詩人萩原朔太郎が家を構えたことにあります。

現在も住宅地の中に埋まっています。
東京電灯(現東京電力)によってこの高圧線の駒沢線が開通したのは昭和1年のことで、実際にこの61号鉄塔が建てられたのは大正時代になります。
本当はもっと東側を通したかったようですが、住民の反対運動にあって代田や若林地域を縦断する形になってしまったとかなんとか。
今でこそ代田地域は地価の高い住宅地となっていますが、当時は郊外にあたり、住んでいる人も少なく、送電線を通すには都合がよかったようです。
その際に61号鉄塔が北沢川の沢から丘を登ったところに設置されました。立地上よく目立ち、見た目以上に高くそびえているような感じを受けます。

丘の上にあるので眺めがいいです。向こうに見えるのが60号鉄塔やキャロットタワーです。
そして本題ですが、昭和8年にこの61号鉄塔の真下に詩人萩原朔太郎が家を構えました。自らデザインした和洋折衷の家は鉄塔に合わせてか、鋭く尖がった三角屋根だったそうです。
そこまでするぐらいですから、土地が安かったから鉄塔の下で我慢しようといったわけではなく、自ら好んで鉄塔の下に住居を構えたようです。
実際に彼の作品の中に鉄塔は登場し、近代化、都市化、モダニズムの象徴的な存在で描かれているそうです。
しかしながら彼の娘で小説家萩原葉子の小説「蕁麻の家」にも61号鉄塔が登場しますが、こちらはありありと描写される文章から父とは逆の「不安」が見て取れるようです。
親子で両極端ですね。こういうのはやはり心の持ちようといったところでしょうか。
ただ現実的な問題として、真上に鉄塔や電線があるという不安だけではなく、少なからず電磁波が出ているようです。
人体に影響が出るのか出ないのか、これははっきりとわかっていませんが、体質的(過敏症など)に、また目に見えないものなので、精神的に過敏に反応する方は土地や家賃が安いからと住まないほうがいいかと思います。

鉄塔にしては珍しく登りやすいように階段がついています。
現在、詩人萩原朔太郎と娘の萩原葉子がこの代田に暮らしていた痕跡はなく、何度も作品に登場するこの61号鉄塔だけがその名残となってしまいました。
この風景資産選定人であり、また古くからこの地域の情報を発信してきた北沢川文化遺産保存の会のきむらけんさんの言葉を借りるなら「代田の丘の61号鉄塔は近代日本文学を象徴する鉄塔であるとともに、地域風景資産に選定されたことで、日本一大きい文学風景記念碑になったと言えます。」との事です。
文学的でなかなかうまい例えですね。そういった風に言われると、どこにでもあるありふれた鉄塔でも見に出かけたくなってしまうものです。
でもいくら眺めてもありふれた鉄塔なんですよね・・・。探したり、訪れるまでがあれこれ考えられて楽しいといったやつでしょうか。
この他にも北沢川緑道の代沢小学校のところに坂口安吾の記念碑もあります。合わせて訪れてみてはどうでしょう。