釜六の天水桶(烏山寺町源正寺)
北烏山4-14-1この天水桶は、江戸時代から明治時代まで続いた鋳工「六右衛門(通称:釜六)」が鋳造したものである。戦時中の金属供出を逃れ、烏山寺町では唯一残る江戸時代後期の天水桶である。この界わいは、大正12年の関東大震災以降に都心等から移転してきた寺が集まっており「烏山寺町」と呼ばれている。 (紹介文の引用)
1、源正寺と釜六の天水桶について

こじんまりとしたお寺です。
烏山寺町の寺町通りの真ん中あたり、ちょうど寺町通り3番のバス停そばに源正寺があります。正式名は、弥勒山源正寺。浄土真宗本願寺派になります。
間口は広くなく、大きな門や派手な本堂もなく、こじんまりとした印象のお寺です。通りの向かいにあるのが、広い敷地を擁している幸龍寺なので、殊更小さく感じてしまったりします。
源正寺は、1277年(建治3年)、貞円によって開山されました。その時の寺の所在地は不明ですが、1657年(明暦3年)、9世住職の秀山によって築地本願寺の敷地内に移転しました。
その後は、築地本願寺とともに歴史を歩んでいましたが、大正12年の関東大震災で、大規模な火災が起き、築地本願寺は全焼。この当時の築地本願寺は広大で、築地には58か寺の寺中子院があったというから驚きます。
源正寺も築地本願寺とともに被災。震災後の区画整理によって移転を余儀なくされ、烏山に移転してきました。烏山寺町にある善行寺や妙善寺、万福寺も似たような経緯での移転になります。


門から入ると、背の高いケヤキが境内にそびえているのが、まず目につきます。そのケヤキなどの木の前に、あまり目立たない感じで本堂があります。ちょうどアジサイの時期に訪れたのですが、本堂の奥にアジサイがきれいに咲いている方が先に目がいったほどでした。
寺町でなければ気にならないのですが、ここは26もの寺がある寺町。自然と他の寺と比較してしまうというもの。個性的な本堂を見てきた後では、普通な感じの本堂を見ても、なかなかポジティブな感想が思い浮かばなかったりします・・・。
まあ、これは興味本位で散策している人間の意見であり、檀家信者の方からしたら大きなお世話。外観で判断するな。と、お叱りを受けそうです。

本堂の玄関両脇には古い天水桶が置かれています。これが地域風景資産のタイトルになっている釜六の天水桶で、戦時中に供出を免除されたほどの逸品になります。
天水桶自体は、そんなに珍しいものではなく、神社やお寺を訪れると、拝殿やお堂の屋根の下にデンと置かれるのを見たことがあるかと思います。
天水、天から降ってくる水、いわゆる屋根に降った雨水を溜める桶で、水の不便な時代には、防火用水などに利用されました。今では神社やお寺ぐらいしか見ることはありませんが、昔は町家にも設置されていました。

全面にデザインが施された鋳鉄製の雨水をためる桶です。
では、「釜六」って何。ってことになるのですが、制作者の名前になります。江戸時代、近江国辻村(滋賀県栗東市)を本拠とした辻村鋳物師が活躍していました。
その中でも、特に名が知れていたのが、太田近江大掾藤原正次。この窯元では、代々「太田六右衛門(太田釜屋六右衛門)」を名乗っていて、「釜六」という愛称で知られています。

緑色の水をたたえ、ホテイアオイが浮かんでいました。

冬の鴨池のようにすっきりとしていました。
源正寺の天水桶を見てみると、境内に入って手前側にあるものには、前面に制作した「釜六」の名、太田氏と刻まれています。違和感のある展開ですが、源正寺の檀家信徒だった彼が自分自身で製造し、寺に寄進したものになります。墓地には、今でも彼の子孫が管理する一族の墓があるようです。
まさか制作者と寄進者同じだと思わないし、自分で自分の名に「氏」を付けるなんて思わないし、訪れたときは「釜六」というのもよく知らなかったので、制作を依頼した地域の名主ぐらいにしか思わず、その部分の写真は撮っていません・・・。
上部の淵周りには、ぐるりと一周、模様が装飾され、胴部分には、凹凸のある植物の模様が施されています。とても凹凸がはっきりとしているので、力強く、また、全面に施されているので、とても華やかに感じます。
裏側を見ると、「維持 天保四 創造之」とあります。天保四年は、1833年。190年以上前の品になります。常に雨ざらしとなっていて、しかも水を溜める桶。今もなお、現役で使われながら形を維持できていることに驚きます。

あれ、なんか変だな。1833年って・・・。太田六右衛門は近江の鋳物師でしたが、寛永17年(1640年)頃に江戸の芝へ出職したとされています。万治元年(1658年)に深川に店を構え、そこで太田六右衛門を名乗ることになります。
延宝五年(1677年)、近江大掾の号を授かり、享保二年(1717年)、幕府から「御成先御用釜師」を命じられています。この時点で約100歳。普通に考えて、2代目か3代目がなったのでしょう。
で、1833年製造の源正寺の天水桶は、さらに百年後。太田六右衛門の名跡は11代目まで継承され、明治維新後まで続いたとされているので、「釜六」の作とはなっていますが、9代目前後の作品になるようです。
とても手の込んだ装飾は、自分の信じる宗教に寄進するため。というより、ご先祖様を供養するためだったり、ご先祖様へ自分の実力を報告する為なのでしょう。持ち合わせている技術をつぎ込んで、丹精を込めて制作したように感じます。

天水桶は本堂の左右にあります。奥のも同じ制作者で、同じ形・・・ではなく、こっちは華やかなデザインは施されていなく、のっぺりとしたものが置かれています。しかも緑の多い季節には、木々に隠れてしまっているといった状態。
こっちは価値のあるものではなさそうだ。あまりにも違うし、質素過ぎる・・・。そう思って写真を撮っていません。興味本位で散策している人間の思考とはそういうものです・・・。
こちらの天水桶には、前面に田中氏と刻まれています。実は、この田中氏もすごい人だったりします。田中七右衛門、通称、釜七。太田六右衛門ともに幕府の「御成先鍋釜御用」を命じられた人物です。
ここ源正寺には、釜六・釜七と呼ばれた近江辻村を代表する鋳物師の作品が並んでいることになり、鋳物マニアからしたら垂涎の地となるようです。
しかし・・・、デザインの統一性があればまだしも、あまりにも違い過ぎて、共作と言うよりは、各々が自分の好みで製作したという感じです。素人目にもちぐはぐで、寄せ集めたような印象を受けますし、この寄進に対する制作者の温度差があるような気もします。
或いは、多くの寺が集まっていた築地本願寺内に寺があったので、震災時の混乱の中で組み合わせが違うものになったとか・・・。などと勘ぐってしまったりもします。
ちなみに、区内では同じ寺町の妙寿寺の梵鐘(1719年、震災で破損)や、豪徳寺の梵鐘(1679年)が釜六の作で、豪徳寺のものは世田谷区指定有形文化財(工芸品)になっています。

通気と雨水からの被害を防ぐために高床になっています。
余談になりますが、天水桶は雨水を溜め、防火用水、或いは飲用水や打ち水として利用されてきました。しかし、水道が発展した現代では、神社仏閣のオブジェと化しています。しかも水を溜めるとボウフラ(蚊の幼虫)が湧くので、蓋がされていたり、水が溜まらないようになっているものも多かったりします。
日本では役目を終えた感のある天水桶ですが、海外へ行くと、まだ現役で使われている土地もあります。もちろん天水桶なんて言い方はしていませんし、普通にバケツを使っていたりしますが・・・。

スコールが降り始めると、バケツを屋根の下に置きます。
水道が未発達のジャングルでは、雨水をうまく利用しています。定期的に激しいスコールが降るので、ある程度雨水を計算することもでき、雨水が使いやすいのです。
昭和の時代は冒険譚が流行っていて、南国の無人島に漂流し、雨水を溜めて生活を送るというような話を興味深く読んでいましたが、実際のところは、雨水を沸かして飲んだとしても、泥の味がしておいしくありません。
お茶にして味をごまかすのが普通ですが、やっぱりどことなく泥の味がしてしまいます。インスタントラーメンに使うのなら、全く分かりませんが・・・。まあ雨水とはそういうものです。
最近では、大気が汚れていて、工場などからの有害な化学物質が混じっていたりすることもあるので、健康的にもよくなさそうです。
2、感想など

凹凸があるので、日が傾くと、とても美し佇まいになります
わざわざ地域風景資産に名指しで選ばれるというからには、さぞすごい天水桶があるのだろう。と期待して訪れたのですが、その時はちゃんとした知識を持ち合わせていなかったので、その期待感を十分満足させるほどの感動はなかったです。
ちゃんとした知識を得て訪れていたなら、単純な私のことなので、凄い工芸品だ!さすがは名工が造っただけはある!となったことでしょう。とはいえ、やっぱり、知る人ぞ知るとか。こういったものに興味がある人は感動する。といった代物のように感じます。
でも、知識や興味がなくても、この天水桶の彫りの深い造形はとても印象的で、特に日が傾いたとき、横から光が当たると、その陰影がさらに強調され、とても美しい佇まいとなります。その様子にはちょっと感動しました。
せたがや地域風景資産 #1-35釜六の天水桶 2025年2月改訂 - 風の旅人
・地図・アクセス等
・住所 | 北烏山4-14-1 |
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・アクセス | 最寄り駅は京王井の頭線富士見ヶ丘駅か、久我山駅。駅からかなり離れています。 |
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