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旅人の歯医者日記

第3章 ユーラシア大陸横断
#3-7 憂鬱で過酷なカンボジア道中

2000年4月

3番目の訪問国はカンボジア。まだ内戦後の復興段階だったので、過酷な旅になりました。(*第3章は現在制作中)

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15、憂鬱なカンボジア入国

ベトナム ムイネの浜辺の写真
ムイネの滞在先で

ベトナムではちょっとした縁でホームステイをすることになった。この当時のベトナムはお世辞にも豊かな状態とは言えなかったが、ここでの暮らしはのどかで、とても居心地よく感じた。

ここで暮らす人生もありではないか。日本は世界トップクラスの豊かさがある国ではあるが(*2000年当時)、ギスギスとしていて生きづらさを感じることも多い。そういった環境の中で生きるよりも、ここで生きるほうが私の性に合っているかもしれない。実際、ここでの暮らしは楽しく、ビザを1か月延長し、滞在を延ばすほどだった。

今回のユーラシア大陸横断旅は、ユーラシア大陸西端のロカ岬を目指しながら見聞を広めるのが第一目的だが、帰国後というか、これからの人生に直結する大事なピースも探していた。

ここに移住することが私の宿命で、この旅はここへ私を導くためのものだったとか。旅を始めて2か月ほどで、その約束の地にたどり着いてしまったのかも・・・。暮らしながらそういう風に考えるようになった。

悩むイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

ただ、ここは社会主義の国。外国人が暮らすには色々と面倒が多い。滞在が長くなると、それを実感する場面が増え、その気持は萎えてきた。

それに、物価が日本と比べると段違いに低い(*2000年の話)。懐の温かい外国人旅行者相手に商売をするなら勝算はあるかもしれないが、普通のベトナム人に混じって暮らすのはなかなかしんどい。日本へ帰省しようにも飛行機代を稼ぐのに何年もかかってしまう。

真剣にここで生活することをシミュレーションすればするほど懸念事項が浮かんできて、思い切った決断をすることはできなかった。

少なくとも今の私にはユーラシア大陸横断という目標がある。まずはユーラシア大陸横断を完遂しよう。旅を進めていけば、真の約束の地が見つかるかもしれない。見つからなかったとしても、やっぱりと思うのなら、また戻ってきてもいい。

はっきりとしているのは、これ以上ビザを延長できないこと。旅を進めていかなければ、不法滞在で旅が強制終了してしまう。ということで、泣く泣くムイネを去り、次の訪問国カンボジアへ向かった。

腹痛に苦しむイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

カンボジア入国にはビザが必要なので、ホーチミン市でビザの申請を行った。発行は2日後。それを待つ間、酷い下痢に見舞われた。これが強烈。ずっと止まらないのだ。

ここまで酷い下痢は生まれて初めて。もしかして・・・、これって赤痢とか、コレラというやつではないのか。自然と致死率の高い病名が頭に思い浮かび、顔が青ざめてくる。

ムイネ滞在中は、暮らしている人達と同じものを食べていたし、水も同じように飲んでいた。お腹の中で悪い菌が繁殖し、そういった病気になっていてもおかしくない。

現在、辛い別れの後で気分が落ち込んでいる最中。「こんな程度の腹痛なんて・・・」と跳ね返すような強い気力が湧いてくるはずもなく、不安がさらなる不安を呼び、体調は悪くなる一方だった。

げっそりするイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

食事も喉を通らないし、このまま宿で安静にしていても治る気がしない。下手したら明日の朝、目が覚めることなく冷たくなっているかもしれない・・・。病院へ行こう。そうだ。せっかく海外旅行保険に入っているのだ。こういう時に利用しないでどうする。

とはいえ、手続きや言葉が不安だな・・・。加入している海外旅行保険の冊子を見てみると、なんと保険会社と提携していて、日本語が通じ、厄介な保険手続きもやってくれる天国のような病院がホーチミンにあるではないか。これは安心。保険に入っていてよかった。明日、起きても調子悪ければここに行こう。

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翌朝、起きても相変わらずお腹の調子が悪く、下痢は続いたままだった。これ以上我慢していてもしょうがない。病院へ行こう。と、タクシーに乗ってその病院へ向かった。

病院に到着し、受付で症状や保険で利用したい旨を日本語で伝えると、気分が少し落ち着いてきた。いわゆる「一安心」といったところだろうか。

問診表や保険などの書類を書いていると、日本人の女性が抱えられるように運ばれてきた。大学生だろうか。意識はもうろうとした感じで、見るからにとても深刻そうだ。大丈夫だろうか。心配だ。

重症の患者のイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

看護師が「症状が重い患者さんが来たので、先に診察してもいいですか?」と聞いてきた。他の待っている人達と同様に「どうぞ」と譲るのだが、「大丈夫だろうか・・・。無事に日本に帰れるのだろうか・・・」と気になってしょうがない。

私なんかまだましな方だな。全然大丈夫ではないか。そんな気持ちで順番を待っているうちに、具合の悪さはほぼ消えてしまっていた。

しばらく待つと、私の診察の番がやってきた。「順番を待っている間に治ってしまいました」と帰るわけにもいかないので、通訳を介して先生に昨日や今朝までの症状を伝えてもらうのだが、現状が深刻な状態ではないので、どうにも気まずい。

こんな展開は日本の歯医者でもあったな。あの時は無理を言って朝一で診察してもらったというのに、診察椅子に座ったとたん症状がなくなり、しどろもどろになってしまったよな。懐かしい・・・。

検便のイメージ(*イラスト:sakuriさん)

(*イラスト:sakuriさん 【イラストAC】

せっかく来たことだし、昨日の下痢は尋常ではなかったのは確かなので、念のために悪い菌が存在していないか、便などの検査をしてもらうのだが、結果は特に悪い菌はいないとのこと。よかった。これで心置きなく旅が続けられる。

これも念のためということで、腸を整える薬など沢山の薬やサプリが渡された。至れり尽くせりだな。というより、このへんは商売上手というべきか。保険会社には症状の割には理不尽な額の請求がいってそうだ・・・。まあ私には関係ないけど・・・。

何はともあれ重篤な状態ではなくてよかった。ムイネを去りたくないといった精神的なものだったのだろうか。病は気からというが、その典型かもしれない。

入国審査のイメージ(*イラスト:Cocoysrtさん)

(*イラスト:Cocoysrtさん 【イラストAC】

翌日、無事にビザが下り、その次の日の4月9日、三番目の訪問国となるカンボジアに入国した。日本出国前に計画していたよりも1か月遅れになる。

予定はあくまで予定。見所が多くて時間が足りなければ、滞在を延ばせばいいという旅だし、ベトナムでホームステイという今しかできないような素晴らしい人生経験ができたので、このことは特に問題はない。臨機応変に行動し、後悔がないようにするのが一番だ。

しかし、誤算というか、とんでもない副作用があった。それは・・・、ベトナムに、というよりその家族やムイネの町に愛着が湧いてしまい、喪失感が強く、旅に身が入らなくなってしまったこと。同じ場所に長くとどまり過ぎてしまったようだ。

落ち込むイメージ(*イラスト:ちょこぴよさん)

(*イラスト:ちょこぴよさん 【イラストAC】

このまま旅を進めて何になるんだ。探していた宝箱はもう見つかってしまったのではないか。そんな考えが頭をよぎり、とても足取りが重い。出会いは別れの始まりとは言うが、こんなに辛い思いをするならホームステイをしなければよかった・・・と思ってしまう。

でも、出会ってしまったものはしょうがないし、出会ったからこそ、素敵な時間を過ごせたのだ。別れは旅人の宿命というもの。辛いからといっていちいち立ち止まっていては旅人失格だ。今回の素晴らしい出会いと滞在中の思い出、そしてこの胸の痛みを糧にして、前に進んでいこう。

とはいえ、もし次に同じような機会に恵まれても、同じ場所にとどまるのは3日以内にしておいた方がよさそうだ。別れが辛すぎる・・・。

といったわけで、新たな国に入国する際というのは少なからずワクワクするものだが、今回ばかりは憂鬱な心境まま、国境を越えることになってしまった。

人生でも旅でもいつも順風満帆というわけではない。こういう落ち込んだ気分になることもある・・・。で済めばよかったのだが、今回はこのことが更に気持ちに追い打ちをかけることとなってしまった。なぜならこの当時のカンボジアは落ち込んだ気分で観光するには辛い国だったからだ。

16、過酷なカンボジア横断旅

カンボジアの地図のイメージ(*イラスト:ナロンエースさん)

(*イラスト:ナロンエースさん 【イラストAC】

カンボジアはタイとベトナムの間にある国。国土面積は日本の約半分ほど。東南アジアの中では小さく、あまり目立たない国になる。

普通の人はカンボジアから何を思い浮かべるだろうか。世界最大規模といわれる仏教遺跡「アンコール・ワット」を思い浮かべるくらいで、あまり印象のない国なのではないだろうか。最近だと「詐欺の拠点となっている危ない国」という印象を持つ人も多いかもしれない・・・。

カンボジア アンコールワット遺跡の写真
アンコール・ワット遺跡

カンボジアの印象が薄いのには少々訳がある。隣国で起こったベトナム戦争が終結したのが、1975年。その後、カンボジアではポルポト政権が誕生するのだが、これがとんでもない独裁政権だった。

政権に反抗するものを片っ端から捕まえ、捕虜収容所に送り、拷問の末に虐殺。その数が170万人というから、人の所業とは思えない。国は混乱し、その後に起こる内戦の死者を含めると、200万人以上が亡くなったとされている。

カンボジア ポルポト派の捕虜収容所の写真
ポルポト派の捕虜収容所

そのポルポト政権が転覆した後、復興と、民主化が進められ、1992年には自衛隊が国連平和維持活動(国連PKO)として派遣された。自衛隊創設以来、初の大規模海外派遣ということで、大々的にマスコミで報じられた。そして、模擬試験や受験のテストにも頻繁に登場した・・・。

この時代を受験生として過ごした私は、カンボジアといえば真っ先に「ポルポト政権とPKO」と連想してしまう。同じような人も多いのではないだろうか。本当によくテストに出題され、この印象が強烈に残っている。

カンボジア 町中のモニュメントの写真
復興のモニュメント

その後は民主化が進められていくものの、貧困や治安、インフラの未整備などの問題があり、日系企業が積極的に進出することはなかった。治安の問題から、アンコール・ワット以外を訪れる旅行者も少なく、日本との関係性が薄ければ、話題に上がることも少なくなるというもの。

それに、経済的な事情からスポーツや芸術などの国際舞台で活躍する人材も育ってきていない。日常的に国の名が報じられる機会が少ないので、印象が薄くなってしまうのは仕方がない。

カンボジア カンボジアの道の様子の写真
道の様子

少し前に辛い歴史があったのが、カンボジアという国。私が入国した2000年というのは、内戦の混乱がようやく収まった頃で、ぼちぼちと観光客が国内を自由に旅行し始めた時期だった。しかし、まだまだ貧困が激しく、道路などのインフラは整備途中で、治安も悪かった。

入国すると、そのまま一気に首都のプノンペンまで移動するのだが、近年まで内戦をしていたせいで、とにかく道が酷かった。主要な幹線道路でも舗装されていない場所が多く、舗装されていたとしてもアスファルトは至る所で穴が開いていて、でこぼこ。

バスはそういった障害を避けながら走るので、道は真っすぐでも、常に左右に揺れているし、穴にタイヤがはまれば、突然上下にバウンドする。本当に快適とは程遠い道中だった。

カンボジア メコン川の渡しの写真
メコン川の渡し

酷い腹痛から回復したばかりで、ムイネでの生活に未練たらたらのまま入国してきた私。腑抜けた状態で楽しかった滞在の思い出に浸りながらバスに乗っていたのだが、突然の揺れによって、窓や壁に頭や肘などをぶつけまくることになった。

1時間程度ならまだしも半日の移動。常に緊張感を持って乗りつづけるのは不可能に近かった。どうしてもウトウトとしてしまうのだが、寝てしまうともっとひどく打ち付けることになる。本当に苦痛な移動だった。

プノンペンに到着したときには、疲労困憊だったのはもちろんだが、たんこぶやあざがいくつもできていた。おまけに絶えず揺れていたので、胃がむかむかとして気持ち悪い。カンボジア初日は最悪な気分で終わった。

唯一ポジティブなことを挙げるなら、口を打ち付けて歯が折れたり、差し歯が取れてしまうような失態を犯さなかったことになるだろうか。

カンボジア 未舗装のぬかるんだ道の写真
未舗装のぬかるんだ道

しかし、これはまだ序の口だった。この当時のカンボジアの道路事情は、ベトナム側が一番よく、タイ側が一番悪かった。なので、次のプノンペンからアンコール・ワットのあるシェムリアップへの道中は更に過酷となり、シェムリアップからタイへの国境にかけては、道が悪すぎてバスの運行はなく、ピックアップトラックの荷台に乗っての移動だった。

絶えず揺れまくる道中は過酷で、じっと座っていることはできない。誰でも移動中に揺れで踊ってしまう道。誰が名付けたのか知らないが、「カンボジアの道はダンシングロードだ」とはよく言ったものである。

カンボジア スタックするトラックの写真
スタックするトラック

貧困の様子もあちこちで目に付いた。現金を得るために何か生産的なことをしたくても、なかなかそういった仕事があるわけではない。

手っ取り早く手に入れるのは、通行人から恵んでもらえばいい。道路が悪いことを利用し、大きなくぼみに車がはまったらそれを手助けしたり、橋などに板を渡して、それでお金を得る。古典的な方法だが、移動中、そういった光景を多く目にした。

もちろん、ぬかるむように水をまいていたり、橋も直しては壊しての繰り返しをしているが、私の乗ったバスの運転手は何も言わずに払っていた。

運転手に聞くと、道が悪いのはどうにもならないし、雨の日など、本当に助けてほしい時もあるからとのこと。もちつもたれつとなり、こういった混沌とした状況の中で生きる知恵なのだろう。

17、鬱な滞在と3度目の正月

カンボジア 頭蓋骨が山積みになっている供養塔の写真
頭蓋骨が山積みになっている供養塔

カンボジアで辟易したのは、移動やポルポト派の虐殺だけではなかった。この頃はカンボジアでの少女買春が横行していたのだ。

国籍別で見ると日本人が多かったらしい。なんでもこういった人たちは元々隣国のタイにいたのだが、物価が上がったとか、規制が厳しくなったとかで、カンボジアに流れてきたという話だ。

ベトナムを旅行している時にカンボジアを旅行してきた日本人大学生の旅行者と一緒に食事に行く機会があった。その時に怒り心頭に「カンボジアに行かれるなら、プノンペンで少女買春をしているゴミのような日本人のおやじどもを何とかしてください。日本の恥です。」と、熱く頼まれたというか、無理やり押し付けられた。

声を荒げるイメージ(*イラスト:poosanさん)

(*イラスト:poosanさん 【イラストAC】

「なぜ、私に頼む・・・」と思うのだが、私が元社会人なので、会社の上司を相手にするような感覚で「年配者の扱いに長けている」と思ったのだろう。しかし、実際プノンペンに到着してみると、悪路での移動で気持ち悪く、翌日はポルポト派の虐殺現場を見に行き、気分が落ち込み、それどころではなかった。

翌朝にはここにいては気分が落ち込んで堪らない・・・と、プノンペンを去ることにした。大学生に悪いが、自分のことで手一杯でゲスな人間と対峙する気力が全く湧いてこなかった。

せめて彼らが武勇伝のように書き綴ったという卑猥な情報ノートだけでも処分しておこうと思ったのだが、それも見つからなかった。

本当にここでは暗くなるようなことばかり・・・。入国した時点で気分がマイナス状態だったので、プノンペンでの滞在は精神的に堪えた。

カンボジア アンコールワット遺跡の写真
アンコール・ワット遺跡

プノンペンからアンコール・ワット遺跡のお膝元であるシェムリアップに移動すると、こちらは外国人観光客が多いのもあり、明るい雰囲気だった。外国人観光客がお金を落としてくれるので、町も比較的潤っているからだろう。

アンコール・ワット遺跡も素晴らしく、ここにきてようやくカンボジアの旅が楽しめるようになった。ただ、遺跡の入場券が、物価に比べると目玉が飛び出そうなほど高額だったことには驚いた。

もし、飛行機に乗って直接アンコール・ワットを訪れたのなら、なんでこんなに高いの。ぼったくりだ。などと、不満爆発していたと思うが、カンボジアの現状を知ってから訪れると、復興や遺跡の修繕などに役立つなら・・・と、ケチな私でもなんとか許容範囲に感じた。

カンボジア 水を掛け合う様子の写真
車に水を掛ける子供たち

シェムリアップではカンボジアの正月を迎えた。今年は日本で正月を迎え、中国で旧暦の正月を迎え、今回ここでクメール正月と、三度の正月を過ごしたことになる。なかなかこういう経験はできない。

カンボジアのクメール正月は水を掛け合って祝う水掛け祭りになる。遺跡を訪れると、多くのカンボジア人がバケツやら水鉄砲やらで水を掛け合っていた。これがなかなか豪快で、集団での水掛合戦といった様相だった。

私は鈍足で無防備な自転車で遺跡を周っていたので、さんざん水をかけまくられる羽目に。最初の数回は笑っていられても、何度もかけられると段々と腹が立ってくる。不安定な自転車に乗っているときに水を掛けられるのが、どれほど危険か考えてほしい。

いい加減腹が立ってきたので、道端で水を掛けていた子供たちに混ざり、水をかける側に回ってみた。これがなかなか楽しい。こういった時間を過ごすと、溜まっていた憂さが晴れていった。

カンボジア 水をかけられるピックアップトラックの写真
水を掛けられるピックアップトラック

しかしながら、この水掛け祭りは厄介で、タイへの国境行きのピックアップトラックの荷台に揺られていると、時々水入りの風船が投げ込まれたり、酷い時はホースやバケツで水をかけてくる連中もいた。最後の最後まで移動に苦労したカンボジア縦断旅だった。

タイの国境に到着してみると、私はそこまでひどくなかったが、金髪で目立つ西欧人はずぶ濡れ状態。怒り心頭で、鬼のような形相になっていた。

濡れた状態まま出国審査に向かうと、審査官も苦笑い。「楽しいカンボジア正月だっただろ?」と聞かれると、自然に「もちろん」という言葉が出てきた。移動に苦労し、虐殺や貧困を目の当たりにして憂鬱な気分にもなったが、なんとか出国する前におおらかなカンボジアの風土に馴染むことができたようだ。

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